世界の偉人筆跡カレンダー 2012年 フィンセント・ファン・ゴッホ

2012年のカレンダー年鑑に経済産業大臣賞受賞のコメントを書きました。こちらですLinkIcon



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セント・ファン・ゴッホの生涯と筆跡カレンダー

2012年は、オランダのファン・ゴッホ美術館の全面的な協力を得て、ゴッホの人生を物語る貴重なスケッチ入りの手紙を選び、編集・構成しました。
1月には1月の、2月には2月の手紙で構成し、実際に手紙の書かれた月に合わせて各月を編集しています。また7月にはポール・ゴーギャンからゴッホに宛てた手紙、12月には弟テオからゴッホに宛てた手紙を掲載し、彼らの数字と筆跡でふた月分構成しました。初めて、友人・家族との絆を加えて表現しています。

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表紙

1888年9月9日(日)~14(金)頃 アルルから妹ウィレミーナ宛ての手紙


『100年後の人たちがぼくの絵を見て、生きる幻と思う肖像画を描きたい』とゴッホは手紙に書いたが、手紙の中にもまさにゴッホは生きている。本状の後半に『親愛なる妹よ。今は豊かで壮麗な自然の風景を描くべきと思っている。ぼくらには陽気さと幸福、希望と愛が必要だ・・・年取って、意地悪で病弱で貧しくなるほど、ぼくは上手く配置された輝く色彩で復讐したい』と書き、いかにも色彩画家を自負するゴッホらしいが、この中の『陽気さと幸福、希望と愛が必要だ』という言葉は、偶然にもそっくり現在の私たち日本人の状況に当てはまる。1888年2月、ゴッホはパリからアルルに移った。南仏の太陽のおかげか、パリより体調がいいと書いている。5月に「黄色い家」の東棟をアトリエとして借りた。ここを拠点に芸術家の共同体を作りたいとポール・ゴーギャンやエミル・べルナールらに呼びかけていた。 『小さな部屋には6点の大きな絵、特に向日葵の、並はずれた大きさの花束の絵を日本風に飾りたい』とゴーギャンを迎えたときの室内の構想を述べている。この頃になると、ゴッホも自分の絵に対する手応えを掴んだのか『もしぼくらが持っているモンティセリの《花束》が愛好家にとって500フランの価値があるなら、ぼくの《向日葵》だってスコットランド人かアメリカ人にそれだけの値で売れるはずだ』と言い、『向日葵はぼくの花だ』と言っている。ゴーギャンもゴッホの《向日葵》を『これこそ、そうだ、花だ』と誉め称え、既にゴッホの《向日葵》を2点持っているにも拘わらず、再度自分の絵と交換しようともちかけていた。

1月

1882年1月14日(土)頃 オランダ・ハーグからテオ宛て。『コーヒーを挽く少女』の水彩スケッチ入り手紙
これは小さな水彩画のスケッチで、
ぼくのアトリエの隅で少女がコーヒーを挽いているところだ。


画家を志して2年足らず。前年春から両親の住むエッテンにいた。夏にプローポーズして断られた、夫を亡くしたばかりの従姉のケー・フォス・ストリッケルが諦められず「芸術の高みをめざすために彼女が必要だ」と言い、11月に強引にアムステルダムへ会いに行った。牧師のストリッケル伯父夫婦を困らせた結果クリスマスに父と口論となり、家を出てハーグへ向かう。この頃別の従姉の夫でハーグ派の画家アント ン・モーヴに「ペンではなく、チョークや絵筆でデッサンしろ」など、素描や水彩、油彩の手ほどきを受けていた。1月1日にシェンクヴェーグ通りに部屋を借り、アトリエとした。この少女のスケッチは借りたばかりのその部屋で描かれたと思われる。

2月

1883年2月20日(火)か21日(水)頃 ハーグからテオ宛て。『よろい戸付きアトリエの窓』のスケッチ入り手紙
モダンな窓とレンブラント時代の窓を比べてみよう。
近頃は冷たく、厳しく、愛のない窓にする傾向があるようだ。


『ぼくならこんな風に作りかえただろう』と描いてみせたのが、この窓のスケッチである。ゴッホはしばしば家の設計やインテリアのことを手紙に書いている。画家にとってアトリエがいかに重要かを教えられ、また感じていたに違いない。『模様無しの灰褐色の壁紙、磨かれた床 、窓にモスリーンのカーテン、すべてピカピカだ。壁には習作が掛けられ、両側にイーゼルが一つずつ、大きな松の仕事机がある。アトリエはかなり本格的になった』と書き、アトリエを整えることに多くの時間と労力が費やされた。窓に布を張って、日光を和らげ、さらに日よけを使って光の状態を作り出していた。

3月

1883年3月2日(金)頃 ハーグからテオ宛て。『アトリエの人々』の水彩スケッチ入り手紙


今はスケッチに希望と興味を持っている。
アトリエでモデルを使い、いろいろ試している。


『窓は下半分が閉まって、一塊の人物の頭上から光が降り注いでいる。水彩のときと同じ、orphan man(養老院の男)、女、子どもたちで試したら、素晴らしい結果が得られそうだ』と書き、アントン・モーヴの「画集の真似ではなく、生きたモデルを使って素描の勉強をすべきだ」というアドバイスを忠実に実行している。モデルの衣装も集め始め、モデルたちに適切な服装をまとわせることができた。『送ってもらったものはたちまち無くなってしまった。君の都合でかまわないが、もう少し送ってほしい』と、送金を頼んでいる。『こちらに来てくれれば、習作を見せられるし、仕事の話もできる』などと世話になっている弟に対し、すっかり開き直っている。

4月

1885年4月ニューネンからテオ宛てに描いたスケッチと同じ構図の油彩『馬鈴薯を食べる人々』
ご覧の通り、構図は今こうなっている。これを大きなキャンバスに 描いた。このスケッチ、中に生命が宿っている、と思うんだ。


村はずれの農家に立ち寄ると夕食を囲んでいた。その光景がこの手紙のスケッチで、ゴッホの最初の記念碑的大作となる。この手紙を書く約2週間前にゴッホにさんざん悩まされた父テオドルス牧師が急死した。葬儀に集まった家族や親戚の目が冷たかったせいか、この頃の手紙には父の死のことがあまり触れられていない。しかし4月、ゴッホは『聖書のある静物』という絵を描いた。机上に分厚い聖書が開かれ、火の消えたローソクが燭台に立っている。聖書の手前に小さな本、ゾラの『生きる喜び』がある。火のないローソクは死を意味し、ゾラの本はゴッホの愛読書で、しばしば父子喧嘩の種になったものだ。父への思いを象徴する静物画であった。

5月

1882年5月1日(月)ハーグからテオ宛て。『ファン・ゴッホの未来の家の間取り』のスケッチ入り手紙


セパレート式のエントランスとキッチン、食堂用小部屋、部屋と3つの窓のある西北向きのアトリエだ。


『三日三晩続いた嵐で、家の大きな窓枠が壊れ、下の塀は崩れ、壁のスケッチも飛ばされ、イーゼルが倒れた。大きな隙間が空いたところに毛布を釘で打ち付けたが、これでますます隣の家に引っ越すことを考えざるを得なくなった。ぼくは隣の家をとても気に入っている。家主もぼくに貸したがっている』と勝手に決めて弟に訴え ている。1月に借りたシェンクヴェーグの家が実は老朽化していて、隣の家の広い2階を借りたかったらしい。この未来の間取りは、広いから区切ることができるし、理想的にするならこんな風だと描いたスケッチのようだ。『光の入り方も上々で、月々の家賃は12.5ギルダー、頑丈な家だ』と、テオの興味を惹こうとしている。

6月

1890年6月オーヴェール=シュル=オワーズから妹ウィレミーナ宛ての手紙に描いたスケッチと同じポーズの油彩『アルルの女』


ぼくの情熱をかきたてるものは、肖像画だ。現代的な肖像画だ。それをぼくは色彩で追求している。


『写真風の、よく似た感じを描くのではなく、ぼくたちのこころを通して描く。そしてその人の性格特性を表現する手段として、色彩についてのぼくたちの近代的な知見やセンスを生かして肖像画を描こうと努めている』と妹に書いた。ウィレミーナはその頃病院で患者の世話をする仕事に就いていたが、それに対し『そんな風にして人は学んでいくのだね』と述べている。また文中のスケッチについて『ぼくの友人ガシェ医師(精神科)は、このアルルの女の肖像とぼくの肖像画を絶賛してくれているんだ。これはぼくにはうれしいことだ』と、肖像画に力を入れていただけに素直に喜んでいる。ガシェはゴッホの最期を看取った医師であり、ゴッホは彼の肖像画も描いている。

7月

1888年7月22日(日)頃ポンタヴェンのポール・ゴーギャン(1848.6.7~1903.5.8)からゴッホ宛て。『格闘する少年たち』のスケッチ入り手紙


ここ10日間ほど、ぼくの頭の中は南仏でやってみようと思う絵の妄想でいっぱいだ。


『「ブルターニュの格闘」を今仕上げたところだ。これはきっとあなたも気に入ると思う』とゴーギャンはゴッホに書き送り、この3カ月後にゴッホの「黄色い家」に行った。パリで出会って以来、ゴッホはゴーギャンに親しみと尊敬の念を抱き、アルルで一緒に共同生活をして互いの芸術を高めようと、何度も誘いの手紙を書いた。それに対するゴーギャンの返信である。当時、ゴーギャンはブルターニュ地方のポンタヴェンという村で活動していた。絵が売れず借金もあったせいか、腰が重かった。最後は、テオがゴーギャンの借金を清算し、絵も売ってやり、アルルへの旅費も滞在費も全て持った。初めは上手くいったが、12月23日激論の末ゴッホが自分の耳を切り、共同生活は終わった。

8月

1882年8月5日(土) ハーグからテオ宛て。『ゴッホのパレット』のスケッチ入り手紙


これは野外で制作する重要な道具だ。 絶対に必要なものだが、高価なので先延ばしにしてきた。


アントン・モーヴから「パレットはこんな風に握らないといけない」と教わった。欲しいものを手に入れた無垢の喜びが表れたスケッチである。『水彩絵具を補充し、絵筆を取り替え、新しく買い足した。今、絵を描くために必要なものは全て揃った・・・小さなことから始めるつもりだ。後でもっと大きな体裁で描くことを考えて』と希望に燃えている。この手紙の1カ月程前に、一緒に暮らしていた元娼婦のシーンが難産の末男の子を産んだ。『テオ。君の援助がなかったら彼女は生きてはいまい・・・今日ぼくがこんなに幸福でそれを書けるのも君のおかげだ。ありがとう』と我が子ではない子どもの誕生に感動する、生活費の稼げないゴッホであった。

9月

1882年9月23(土)頃 ハーグからアントン・ファン・ラッパルト宛て。『傘を持った後ろ姿の老人』のスケッチ入り手紙


今、手元にルノワールのプリントが 大小合わせて40枚ほどある。


『最近モンバールの描いたアイルランドとジャージーのスケッチを何枚か入手したが、情感たっぷりだね』と、いかにも画家仲間らしい文面だ。ラッパルトはブリュッセルの裕福な貴族の息子で、パリ修業の後、アカデミーで絵の勉強をしていた。1880年頃テオに紹介された、芸術論を交わせる数少ない友人であった。しかし、ゴッホの『馬鈴薯を食べる人々』の人物表現について厳しく批判され、友情は破綻してしまう。この当時ゴッホの色調はまだ暗い。しかしこの20日程前テオに宛てた手紙で『ぼくは色彩に関する一種の勘がある、それがもっと身についていくだろう。絵具で描くことがぼくの骨の髄に入りこんでいる』と、自分の未来のありようを予感している。

10月

1883年10月16日(火)頃 ニューアムステルダムからテオ宛て。『農夫と2人の婦人』のスケッチ入り手紙


この畑のスケッチは、巨匠たちの絵に見られるものと同じテーマだ、 しかし異なるものだ。


巨匠の1人は、農民画家として知られるジャン・フランソワ・ミレーである。ゴッホはミレーに憧れ、農民画家をめざし、何度も何度も模写を繰り返す。この手紙を書く1カ 月程前、シーン親子と泣く泣く別れてハーグからオランダ東北部ドレンテに来た。気に入った農村風景を求め、ドイツ国境のニューアムステルダムまで足を延ばし、このスケッチを描いた。『1カ月前からヒースの野原の空気を吸っている。・・・ぼくは落ち着いた。・・・ぼくを信じてくれ』『ぼくは馬鈴薯畑を耕す男たちの後を歩いた。女たちは彼らの残した馬鈴薯を拾い集めていた』と書き送っている。同情し、愛した女性と別れ、画家としてまた新たな一歩を踏み出した気持ちが手紙に滲み出ている。

11月

1888年11月アルルからテオ宛ての手紙に描いたスケッチ(クロッキー)と同じ構図の油彩『種をまく人』


これは今取りかかっている最新のキャンバス、もう一つの『種をまく人』のクロッキーだ。


『太陽は巨大なレモンイエローの円盤、グリーンイエローの空にピンクの雲。畑は紫、種をまく人と木はプルシアンブルー。30号のキャンバスだ。友人たちに見せるため、君のアパルトマンに飾ろう』と、手応えある作品ができそうな書きっぷりだ。ここに出てくる太い木が、浮世絵の構図から得たものであろうことは想像に難くない。この6月にも同じテーマを描いているが、そちらは種をまく人と畑、大地が広がり、後方の地平線に黄色い太陽が沈む。木はない。アルルに来たとき、『ここは日本のようだ』『ぼくは日本人になったみたいだ』との言葉を何度もテオや友人に送っていた。この手紙はゴーギャンが到着して約1カ月。心が高ぶっているようだ。

12月

1889年12月8日(日) パリのテオ(1857.5.1~1891.1.25)からゴッホ宛ての手紙


最近、タンギーがあなたの絵をいくつも展示していて『蔦の絡まるベンチ』を売りたいと言っている。


弟のテオなしに『画家ゴッホ』は語れまい。画商として支えただけでなく、ゴッホの生活費を全て支援した。文中、タンギーとあるのは ゴッホが描いた有名な『タンギー爺さん』で、パリの画材商である。ゴッホもパリ時代世話になった。『タンギーの店に飾ったあなたの絵を見て雑誌社のオーナー、オーリエールという人物が私に会いに来て、店とあなたの絵を雑誌に紹介した』と書き送った。テオは『あなたにとってよい時期がいつの日か訪れる』と兄を励まし、売れない印象派の画家たちも応援していた。しかし兄はこの翌年7月末に自殺。その半年後テオは病死する。《自画像》とされていた1887年作の肖像がテオであると最近発表された。