世界の偉人筆跡カレンダー 2015年 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯と筆跡カレンダー

2015年は、いつの時代も世界中の人々から熱狂的に愛される作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの筆跡をコレクションしました。モーツァルトの生地オーストリアのザルツブルクに国際モーツァルテウム財団を訪ね、全面的な協力を得て貴重な手紙、楽譜などを多数収集。取材を通じて新たなモーツァルト像も浮かび、新鮮な12ヶ月を編集・構成することができました。まるで絵画のような音符、ジョークに溢れる人柄も筆跡にあらわれて、これまでにない味わいです。ひと月めくるごとに、何か発見があります。



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父は思った。ヴォルフガングは神の贈物。これを世に知らしめるは神の意志、それを実行するのが私の使命------
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日20時神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領(現オーストリア)に生まれた。父は宮廷音楽家のレオポルト、母はアンナ・マリア、4歳半年長の姉ナンネルがいた。5歳で作曲を始める。『息子は神の贈物』、父はこれを世に知らしめることこそ使命だと信じた。かくして旅が始まる。1762年10月ウィーンで女帝マリア・テレージアの御前で演奏。翌年パリ社交会で歓迎され、ルイ15世夫妻の御前で、またロンドンではイギリス国王夫妻の御前で演奏した。この地でヨハン・クリスチャン・バッハに出会い大きな影響を受け、8歳にして交響曲を作曲、12歳でオペラを作曲する。1770年ボローニャではマルティーニ神父に音楽理論上の指導を受ける。ローマでは教皇クレメンス14世から『黄金拍車の騎士』の称号を授かった。1772年16歳でザルツブルク宮廷楽団の有給コンサートマスターとなる。ミラノ大公フェルディナントがモーツァルトを宮廷に迎えたいとウィーンの母、女帝マリア・テレージアに相談するが反対される。演奏や作曲は絶賛される。が、他の宮廷での就職活動はことごとく失敗した。1777年8月大司教に演奏旅行のため父子で退職願いを出すが父は留められ、9月母とパリをめざした。途中マンハイムで歌手の卵アロイージアに恋をする。翌年3月パリに着くが、7月母が病死。成果のないパリの帰り、アロイージアの元に向かう。が、失恋。しばらくしてミュンヘンのバイエルン選帝侯からオペラの依頼が届く。大成功であった。その頃大司教からウィーンに来いとの命令が下る。しかし召使い同様の扱いに怒り、大司教と決別、解雇された。「断言しますが、ウィーンは素晴らしい。ぼくの職業にとり世界最高の場所です」と父に書き送り、この時代、稀な独立した芸術家が誕生した。反対されながらも強引に結婚し、父からも独立する。1787年10月7日前任者グルックの死が迫るとき、ようやく皇帝ヨーゼフ2世から宮廷作曲家に任命される。31歳で父の夢であった「帝室王室作曲家」になれた。が、父の死後数ヶ月が過ぎていた。

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表紙


235年前、24歳のモーツァルトがミュンヘンからザルツブルクの父レオポルトに宛てた年賀の挨拶。ヨーロッパ・キリスト教社会では新年よりもクリスマスの祝いのほうが大事かと思えるが、いやいやモーツァルトの時代は、新年の挨拶も大切なもので、クリスマスと新年を同時にではなく、単独で新年の挨拶をすることが多かったらしい。そう言えば、レオポルトの家族に宛てた手紙にも『新年おめでとう』の文字が見出される。このモーツァルトの手紙は1780年12月30日に書かれた。当時の郵便事情から推測すると、ザルツブルクまでは1週間かからず正月の早い時期に届いたのではないだろうか。このときモーツァルトはミュンヘンで翌年の謝肉祭に上演されるオペラ「クレタ王イドメネーオ」(新宮廷劇場で翌年1月29日初演)の作曲を依頼され、書いていた。これは、モーツァルトオペラの創作を発展させる転換期にあたり、全作品の中でも重要な位置を占めている。『まだ第三幕が完全ではありません。…ぼくは光栄にも舞踊音楽も書くことになっています。…選帝侯(カール・テオドール)は先日のリハーサルでとても満足なさり、翌朝謁見の場で、さらに夜には会議場でぼくのオペラを絶賛してくださいました』と伝えている。また、最後のアリアに歌いにくい歌詞があり、歌手が別の歌詞を持ってきてこれに曲を付けてくれと頼んできたが、さてどうするか、水曜までに返事がほしいと珍しく父に助言を求めていた。その返信については明らかではないが、父レオポルトと姉ナンネルは初演に間に合うよう、1月25日頃ザルツブルクを発ち、新宮廷劇場で完成したオペラを観劇した。天才を育て上げた父の胸の高まりはいかばかりであったろう。
国際モーツァルテウム財団所蔵

1月


未完成の宗教曲「キリエ」KV166(Anh.19)自筆譜
国際モーツァルテウム財団所蔵
サイン:ベルリン州立図書館所蔵


ケッヘル作品目録第6版では1773年6月ザルツブルクで作曲とある。
中段にKyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)という歌詞が見える。五線譜の一番上にフランス語で意味不明の文章があり、その右下に小さく顔が描かれているが、誰を描いたものかわからない。この前年1772年10月の末からモーツァルト父子の姿はミラノにあった。当地からの依頼でオペラ「ルーチョ・シッラ」(KV135)を書くためであった。大胆なオーケストレーションがなされ、初演はモーツァルト自らの指揮で12月26日ミラノ大公宮廷劇場で行われた。26回も上演された生前最も大きな手応えを得た作品である。1773年3月にザルツブルクに戻った父子は久しぶりに落ち着いた日々を送っていた。この後7月に再び就職活動のためか、ウィーンのシェーンブルン宮殿をめざすが、その前、6月にこの未完の宗教曲は書かれたらしい。

2月


オペラ「フィガロの結婚」よりアリア
“un moto di gioia mi sento”(私の胸は喜びに高鳴る)
KV579の自筆譜と初演パンフレット
自筆譜/ベルリン州立図書館所蔵
初演パンフレット/アメリカ議会図書館所蔵


ウィーンで上演禁止になっていたボーマルシェ原作の喜劇を、皇帝が認めるオペラに変えてほしいとモーツァルトはダ・ポンテに依頼した。
劇作家ロレンツォ・ダ・ポンテの改作が成功し、皇帝ヨーゼフ2世(女帝マリア・テレージアの長男)の委嘱によりモーツァルトは1785年10月頃から大作「フィガロの結婚」にとりかかっていた。モーツァルトが指揮を行い、初演は1786年5月1日ブルク劇場で行われた。回を重ねるごとに観衆の熱気は高まり、アンコールが多すぎて上演時間が倍近くになってしまったという。のちプラハで上演されるや『フィガロ、フィガロ』と街は大騒ぎだとモーツァルトは友人に書き送った。聖シュテファン大聖堂のすぐ裏にドームガッセという通りがある。その5番地に1784年9月から1787年4月までモーツァルトの住んだ家がウィーンで唯一現存する。貴族の館のような豪華な造りで「フィガロの結婚」はこの家で書かれた。

3月


1784年3月20日付ウィーンのモーツァルトからザルツブルクの父宛手紙
オーストラリア国立図書館所蔵


1784年4月1日のウィーン新聞に『音楽家モーツァルト氏は皇王室国民劇場で大音楽会を催す光栄に浴した』とある。
演奏会の予約会員174名全ての名前を書いて父に知らせた。当時ウィーンの上流社会を形成していた大半の名前が網羅された貴重な記録とも言える。孤高の芸術家が敵や妨害の多いウィーンで、最も人気を博し、活躍していた証となる一通の手紙である。『ぼくだけで、リヒターとフィッシャー二人の音楽会予約者を足した数より30人も多いんです。今月17日の演奏会は無事にすみました。広間は超満員でした…ぼくの弾いた新しい協奏曲(KV449)は特に好評でどこでもこの演奏会を褒めたたえています』。本当は3月21日にこの予約演奏会をするはずであったが、リーヒテンシュタイン伯爵が自宅でオペラを上演し、オーケストラの優秀なメンバーもそこに取られるため、4月1日に延期した。自信と喜びと余裕が文面に表れている。

4月


「数字の書かれた譜面」
国際モーツァルテウム財団所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


このたくさんの数字は、ピアノ協奏曲KV414の下書きと思われるKV385oの譜面上に書かれている。
モーツァルトは学校に行っていない。語学も、数学も、音楽も全て父親から学んだが、実は数学が好きだったらしい。譜面の五線譜2段目の途中から10段目まではKV385oのスケッチで、それはピアノ協奏曲KV414の第一楽章の下書きと思われる。数字はオペラ「後宮からの誘拐」KV384に関するもので、他の数字と掛けて合算したり、一説では自分の曲が1小節いくらになるか計算しているという。音楽家も作品もイタリアが主流だった当時、モーツァルトはドイツ語のオペラ「後宮からの誘拐」に全力を注いだ。無事に1782年7月16日幕を開け、大成功を遂げる。皇帝や宮廷作曲家グルックからも賞賛された。この劇のヒロインとモーツァルトが結婚する女性の名前が偶然か、共にコンスタンツェであった。

5月


1780年5月10日付モーツァルトから
従妹マリーア・アンナ・テークラ(ベースレ)宛手紙
大英図書館所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


母とパリに向かう途中、父の生まれ故郷
アウグスブルクに立ち寄って従妹のベースレと会った。
似顔絵は従妹のベースレであろう。数少ないモーツァルトの絵の一つである。顔の周りに頭、ちぢれ髪、鼻、胸、首筋、目の他、顎のあたりに『お尻の割れ目』、乳房を指し『ここは空っぽ』という書き込みがある。『最も魅力ある下品な従兄のために、おかんむりのベースレちゃん別名小チェロちゃん!わがお尻を吹け一発…健康を祝して…あなたの見え、且つ見えざる魅惑的美しさにきっとスリッパの踵くらいは優に高めている』。ベースレ宛になると気が合うのか表現が爆発した。これらスカトロジカルな表現は、この地方独特の慣習からきており、モーツァルトの父も母も手紙に同じような表現を用いていた。ウィーンでも歌手や聴衆を楽しませるため、KV231、KV233「俺のケツを舐めろ」というカノンを作詞作曲している。

6月


「クラヴィーアのためのアレグロ ハ長調」自筆譜 KV5a(9a)
国際モーツァルテウム財団所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


8歳で作曲し、自らの手で楽譜を書いた「クラヴィーアのためのアレグロ ハ長調」KV5a(9a)。
父レオポルトが1759年に姉のナンネルに与えた楽譜帳がある。そこにこの曲は収められている。モーツァルトは5歳から曲を作り始めたが、始めは楽譜を自分では書けないので、父が代筆していた。幼い頃の自筆譜はあまり遺っていないから、とても貴重なものと言えるだろう。この楽譜をよく見ると、8歳とは思えない。既に円熟した作曲家の楽譜と見まがうほどである。しかも、このときモーツァルト家は3年半にわたるパリ・ロンドンの旅の空の下にあった。1764年4月23日にロンドンに着き、翌65年の7月まで当地に滞在したという。どこかの修道院か宿で書いていたのだろう。モーツァルトにとって人生の約3分の1を過ごした旅は学校であり、仕事場であった。「アレグロ ハ長調」は、クラヴィーアの純な音が心に沁みる。

7月


「姉ナンネルの日記帳」
国際モーツァルテウム財団所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


1780年久しぶりにザルツブルクでゆっくりしたモーツァルトは、8月と9月姉ナンネルの日記帳に我が物顔で書き込んでいる。
筆まめだったモーツァルトの様子は旅先からの手紙で思い巡らすことができるが、故郷にあったときの日常を教えてくれる資料は滅多にない。姉に代わって、『8月20日 10時にミサに。ぼくが触り慣れたとんまの狐のチンポ氏とぼくを舐めたとんまが(ファミリーゲームでロレロレに負けて)とんま大賞を出した…』『9月11日 8時半教会に。夕方パパ、ピンペルル(愛犬のフォックステリア)そしてぼくが散歩。』『23日 9時にミサ。午後テレージア・ペンクリンと市場で買い物をする』。こ似顔絵はモーツァルト家の小間使いをしていたテレージア・ペンクリンを描いたものらしい。ふざけているのか、下手なのか、まるで男性であるかのように描き、顔の周りに『1738年リンツに生まれ落ちた』と、からかっている。

8月


1773年8月21日付父レオポルトから妻アンナ宛手紙
左はレオポルトの文字
右は追伸としてモーツァルトが逆に書いた文字
国際モーツァルテウム財団所蔵


旅では、手紙を書くことが気晴らしだったのか、文字を、ときに反対から書き、ときに下から書く。
第3回イタリア旅行の折、父は17歳になったモーツァルトをミラノ大公宮廷に就職させたかったが失敗。フィレンツェのトスカーナ大公にも取り立ててもらえず、1773年3月に父子はイタリアからザルツブルクに帰った。しかし7月14日再び旅に出る。目的地は3度目のウィーンである。そして8月12日、妻に宛て『皇太后(マリア・テレージア)は私たちにとても好意をお持ちでした。でも、それで全てでした』と書き送った。ここでも就職活動の結果が意に反したことを告げている。一方、8月21日付のモーツァルトの姉への追伸は、父や自分の気持ちを和らげるつもりか、就職などどうでもよいのか、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、英語にザルツブルク方言を交え、サインも日付もウィーンの文字も全て逆から書いて遊んでいる。

9月


1782年8月3日 モーツァルトとコンスタンツェ・ヴェーバーの
結婚証明書
大英博物館所蔵


祝宴はコンスタンツェの母親を説得して仲を取り持ってくれたヴァルトシュテッテン男爵夫人の采配で8月4日に行われた。
7月16日にドイツ語のオペラ「後宮からの誘拐」の初演が行われ、生前の舞台作としては最大の成功をもたらした。7月27日付『最愛、最上のお父さん!どうぞお願いです。後生ですから、ぼくが愛するコンスタンツェと結婚できるように同意してください…ぼくの心は落ち着かず、頭は混乱しています…哀れな娘は、死ぬほど悩んでいます』と、結婚を承諾しない父に訴えている。コンスタンツェはかつてモーツァルトが失恋したアロイージア・ヴェーバーの妹であり、よい噂の入って来ない母親ヴェーバー夫人を父は嫌っていた。急遽モーツァルトは8月4日、聖シュテファン大聖堂で式を挙げてしまう。『ぼくら二人が結ばれたとき、妻もぼくも共に泣き出しました。全員が感動して司祭様まで涙を流しました』と父に事後報告した。

10月


オペラ「魔笛」の序曲自筆譜と初演パンフレット
自筆譜/ベルリン州立図書館所蔵
初演パンフレット/オーストリア国立図書館所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


モーツァルトの最晩年1791年のオペラ「魔笛」は、1782年「後宮からの誘拐」以来のドイツ語のジングシュピール(音楽劇)であった。
1789年フランス革命の勃発以後、君主から貴族へ、貴族から一般大衆へ、時代が移り始めていた。旅の一座を率いザルツブルクで公演したとき知り合った座長エマヌエル・シカネーダーがウィーン郊外に一般大衆向けの、客席1000席もあるアウフ・デア・ヴィーデン劇場で支配人兼座長をしていた。1791年春頃シカネーダーから「魔笛」の作曲が依頼される。二人とも秘密の友愛組織フリーメーソンのメンバーであった。序曲に3回繰り返される和音、3人の侍女、3人の童子、神殿の3つの扉など、3はフリーメーソンの神聖な数字をあらわしたものという説もある。1791年9月30日初演。有名な夜の女王のアリアは、妻コンスタンツェの姉ヨゼーファー・ヴェーバー・ホーファーが歌った。

11月


左/1772年12月18日付父レオポルトから妻宛手紙
右/父レオポルトの給与計算書
国際モーツァルテウム財団所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


父レオポルトも手紙に絵を描き、遊んでいる。11月の構成はサインはもとより日付の数字も給与計算書に記されたレオポルトの筆跡である。
このスケッチと詩入りの手紙を見れば、モーツァルトの言葉遊びや冗談は母譲りと言われているが、父親譲りでもあることがわかる。レオポルト・モーツァルトは1719年11月14日にアウグスブルクで生まれた。古典、文学、科学のあらゆる教育を受け、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語、英語も習得し、最終学年で医学も修めた。さらに音楽家あるいは俳優としてイエズス会の学校劇に参加。1737年ザルツブルクの大学で哲学と法学を学ぶも音楽家になることを決め、作曲技法を習得した。1740年「二つのバイオリンとバスのための教会・室内ソナタ」全6曲を初めて作曲。彼はまた天性の画家でもあった。ハートの右に見えるのは『飛んで行け いとしの愛児のいたるところに』という詩である。

12月


1777年12月3日付モーツァルトから父宛手紙
国際モーツァルテウム財団所蔵
サイン:国際モーツァルテウム財団所蔵


12月、マンハイムのモーツァルトからザルツブルクの父へ『あなたの手に10万回のキスを贈ります』。
モーツァルト家の家族同士の手紙は、いつも『キスを贈る』という言葉で締めくくられていた。あるときは千回、興が乗ると天文学的な数のキスを贈った。この手紙は、母と共にパリへ向かう途中マンハイムから出された。バイエルン選帝侯カール・テオドールの姫にクラヴィーアを教えたり、若殿にメヌエットの変奏曲を書いたりして、宮廷作曲家として雇用を願い出ていた。だが、選帝侯は曖昧なまま結論を出さない。ぐずぐず返事を待つモーツァルト21歳。いらいら遠くから息子を見守る父58歳。二つの心が、一片の手紙の中で交差し、噛み合ない。
*モーツァルトの手紙は、封筒と中身が一体になった形式で、宛名の見える状態に最後まで折ると、
縦75×横120mm、掌に収まる大きさである。