世界の偉人筆跡カレンダー 1994年

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1994年 Calendar  





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1月 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー Pyotr Ilich Chaikovskii

1840.5.7~1893.11.6
ロシアの作曲家。
ウラル山脈に近いヴォトキンスクに住む鉱山技師の家に生まれた。
幼い頃よりピアノを学ぶが、父の仕事の都合による転居のため、一時中断。
法律学校に進んだ。卒業後、法務省一等書記官となるが、音楽への情熱はやみがたく、
23歳で法務省を辞め、ペテルスブルグ音楽院で音楽の勉強に専念する。
音楽家として正式に作曲を始めたのは、モスクワ音楽院の教師に招かれ、
モスクワに居を移してからで、彼はその後の26年間でおびただしい数の作品を絶え間なく生み出した。
9つの劇音楽、3つの素晴らしいバレエ音楽、6つの交響楽と1つの交響詩、そして数多くの室内楽曲。
それは、19世紀ロマン主義が最後の花を咲かせた時代に華麗な輝きをもたらしている。
〈交響曲第六番ロ短調『悲愴』〉オペラ〈エフゲニー・オネーギン〉バレエ音楽〈白鳥の湖〉

2月 ローベルト・アレクサンダー・シューマン Robert Alexander Schumann

1810.6.8~1856.7.29
ドイツの作曲家。
書籍出版業を営んでいた父は、メルヘンなども自作していたといわれ、
音楽家であるとと同時に詩人・批評家でもあった彼の才能はそうした影響によるとも思われる。
ライプツィヒで師事した名ピアノ師事した名ピアノ奏者、ヴィークの娘クララとの恋愛は
音楽史上あまりにも有名で、ヴィークの反対を受けながらも、長い葛藤の日々の後、1840年に結ばれた。
その間、彼は創作に没頭することで危機を逃れようとし、
ピアノ曲を中心とした数々の傑作がこの時期に書かれている。
さらに、結婚は創作上の転換をもたらし、歌曲集、交響曲、室内楽の名作が次々に生み出された。
46歳で生涯を終える数年前にはブラームスを世に紹介し、その交流はよく知られている。
〈謝肉祭〉〈子どもの情景〉〈詩人の恋〉

3月 ベーラ・バルトーク Bela Bartok

1881.3.25~1945.9.26
ハンガリーの作曲家。
農学校長であった父の死後、国内を転々としながら、音楽を学び、
1903年にブダペスト音楽アカデミーを卒業。コダーイと協力してハンガリーや
その他の民俗音楽の採集に着手し、長年にわたる研究の成果を後に発表。
民俗音楽学者としても評価が高い。
アカデミーのピアノ科教授就任後より、弦楽四重奏曲、バレエ音楽、オペラなどを手がけ、
海外での名声を高め、ハンガリー政府から作曲を委託されるまでにいたるが、
30年代から次第にファシズムが台頭し、彼はそれに強く反対。ついに亡命を決意し、渡米。
64歳で亡くなるまで、故国に帰ることはなかった。
晩年は不遇の中で過ごしたといわれている。
民俗の誇りと精緻な知性、それこそが彼の音楽の源泉であった。
オペラ〈青ひげ公の城〉〈ヴァイオリン・ソナタ第一番〉〈ピアノ協奏曲第二番〉

4月 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph Haydn

1732.3.31~1809.5.31
オーストリアの作曲家。
車大工マティアス・ハイドンの第二子として生まれる。
幼少の頃、ウィーンのシュテファン大聖堂の楽長ゲオルク・ロイターに見出され、聖歌隊に入隊。
変声期による退団後は音楽の家庭教師などで生計を立て、
1761年にハンガリーのエステルハージ侯に副楽長として雇われ、後には宮廷楽長となる。
エステルハージ家は生涯にわたってハイドンに恵まれた環境を提供し続けた。
104曲にのぼる交響曲、75曲の弦楽四重奏曲をはじめ数々のソナタ、協奏曲、室内楽、オペラ、ミサ曲。
後期バロックからロマン派初期の約半世紀にわたって残された彼の足跡は、
その時代の音楽史そのものであり、その名前はウィーン古典派の代名詞となった。
〈天地創造〉〈弦楽四重奏曲作品七六〉〈ロンドン交響曲〉

5月 カルル・マリア・フォン・ヴェーバー Carl Maria von Weber

1786.11.18?~1826.6.5
ドイツの作曲家。
北ドイツ、ホルシュタイン地方の町、オイティンに生まれる。
巡回歌劇団の主宰者であった父について各地を転々としながら少年時代を過ごし、
フォーグラーの推薦でブレスラウ歌劇場の指揮者兼作曲家となった。
その後、プラハ私立劇場、ドレスデン宮廷劇場と歩み、音楽家としての地位を確立。
ベルリン王立劇場のこけら落としにあの『魔弾の射手』が採用された。
このオペラはヴェーバーの最高傑作であり、また、もっともドイツ的な芸術であり、
樫や楓や菩提樹におおわれた深く暗いドイツの森への賛歌であろう。
オペラ〈オベロン〉ピアノ曲〈舞踏への勧誘〉

6月 ジャコモ・プッチーニ Giacomo Puccini

1858.12.22~1924.11.29
イタリアの作曲家。
プッチーニ家は代々すぐれた音楽家を輩出した家系であった。
その才能が輝きはじめたのは、ミラノ音楽院でポンキエッリに師事してからで、
初めてのオペラ『ヴィッリ』は、師の後援によって生まれている。
プッチーニはその処女作から、類いまれな旋律美と巧みな性格描写で聴衆を魅了し、
オペラ作家として成功。次々と多彩な魅力にあふれた作品を創り続けた。
自らを「劇場のために作曲するよう神に命じられた者」と称した彼は、
その言葉通り終生をオペラ創作に捧げた。ヴェルディをイタリア最大のオペラ作家とするなら、
プッチーニはイタリアでもっとも愛されたオペラ作家といえるだろう。
〈ラ・ボエーム〉〈トスカ〉〈蝶々夫人〉〈ジャンニ・スキッキ〉

7月 ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet

1838.10.25~1875.6.3
フランスの作曲家。
声楽教師の父、ピアノ奏者の母のもと、パリに生まれる。
早くから天才ぶりを発揮し、17歳ですでに初期の傑作といわれる
『交響曲第一番ハ長調』を作曲するが、その後すぐに作曲家としての成功を得たわけではなく、
ようやく1869年、恩師アレヴィの娘ジュヌヴィエーブとの結婚を機に、その才能が認められはじめ
今日まで残る名作の数々を発表。多くの作品が聴衆に熱狂的に迎えられた。
しかし、現在彼の最高傑作とされる『カルメン』はパリ初演に失敗。
同じ年のウィーン初演で正当な評価と喝采を得たが、
パリ初演のその3ヵ月後に急死したビゼーは、その成功を知ることはなかった。
オペラ〈カルメン〉組曲〈アルルの女〉ピアノ連弾曲〈子どもの遊び〉

8月 ベドルジフ・スメタナ Bedřich Smetana

1824.3.2~1884.5.12
チェコの作曲家。
チェコの人々がスメタナを「民族の誇り」と呼ぶとき、そこには
音楽の業績だけでなく、最後まで運命に屈することがなかった人物への畏敬の念がふくまれている。
当時のチェコはオーストリア支配下にあり、国内には民族復興の気運が高まっていた。
彼は音楽と革命とを重ねるごとく、どちらにも積極的な活動をつづけるが、革命は失敗。
一度は祖国を離れなければならなかった。5年後、再び祖国へ戻り、
チェコ国民音楽の父としての目覚ましい活躍をはじめる。
しかし、1874年、聴覚に異常をきたしついにスメタナは完全に耳の機能を失う。
だが、創作はなおもつづけられた。
『わが祖国』をはじめとする傑作は、その苦難の中で生まれ、今もなお輝いている。
交響詩〈わが祖国〉弦楽四重奏曲〈わが生涯より〉オペラ〈売られた花嫁〉

9月 エクトール・ベルリオーズ Hector Berlioz

1803.12.11~1869.3.8
フランスの作曲家。
フランス南東部イゼール県の村、ラ・コート・サンタンドレに生まれる。
医師である父のすすめで18歳のとき、パリに出て医学を学ぶが、
初めて見たオペラに感銘を受け、音楽家になる決心をする。
パリ音楽院に入学し、勉強に没頭する中、1827年、彼に転機が訪れる。
シェークスピア劇上演のためにイギリスからやってきた、女優ハリエットとの出会いである。
彼女への思いは「ある芸術家の生活のエピソード」という副題を持つ『幻想交響曲』へと昇華された。
ロマン主義的な標題音楽を創始したことで音楽史上に金字塔を築いたベルリオーズは、
多くの傑作とともに、フランス・ロマン派にふさわしいその劇的な人生で後世に記憶されている。
〈幻想交響曲〉〈ローマの謝肉祭〉〈ファウストの劫罰〉

10月 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル Georg Friedrich Händel

1685.2.23~1759.4.14
ドイツ・イギリスの作曲家。
ドイツのハレに生まれるが、1727年イギリスに帰化。
外科医であった父が仕えていたアードルフ公に才能を認められ、音楽の道を志す。
ドイツでオペラ作家として成功した後、当初はローマへ向かうが、
1710年にロンドンへ赴き、ロンドンを本拠とする決意を固める。
有名な『水上の音楽』は、イギリス国王が催したテムズ川での舟遊びの際に演奏されたものである。
その後、イギリスに帰化したヘンデルは、晩年に文字通りの黄金期を築き、
ロンドンで他界した後は、バッハと並ぶバロック晩期の巨匠として、
また、イギリスの国民的英雄として、ウェストミンスター寺院に丁重に葬られた。
〈水上の音楽〉オラトリア〈メサイア〉〈ブロッケス受難曲〉

11月 ヨーゼフ・モーリス・ラヴェル Joseph Maurice Ravel

1875.3.7~1937.12.28
フランスの作曲家。
スペイン国境に近いシブール村に生まれるが、3ヵ月後にはパリへ移る。
7歳からピアノを学びはじめ、20代の初めにはすでに初期の傑作とされる作品の数々を書いている。
初期のものには、ドビュッシーの影響が見られるといわれているが、
その後、独自の様式を完成。ロシア・バレエ団のディアギレフからバレエ音楽を依頼され、
ストラヴィンスキーと知り合ったのは1909年のことである。
ラヴェルの作品においては印象主義的な手法とともに、その謎めいた官能性が人を魅了するが、
ストラヴィンスキーが「スイス製の時計のように精密」と感嘆した
古典主義的態度が本質にあり、それこそが彼の音楽に創造性を与えている。
〈水の戯れ〉〈スペイン狂詩曲〉〈ボレロ〉〈ツィガーヌ〉

12月 フェリックス・メンデルスゾーン Felix Mendelssohn

1809.2.3~1847.11.4
ドイツの作曲家。
ハンブルグに生まれ、3歳のときに一家でベルリンに移る。
裕福で教養のある両親のもとで、彼は音楽の才能を十分に伸ばし、当時の大家達に天分を認められた。
少年時代にはゲーテに可愛がられ、かの文豪から詩を贈られており、
成長するにつれ、リスト、シューマン、ショパンなどとも交流を深めたという。
その作品は、幸福であった彼の生涯が反映されているかのように、
美しい抒情性と、明朗で軽快で華やかな主題を持ち、現在も多くの聴衆に親しく愛されている。
たったひとつ、わずか38歳という短命であったことをのぞけば、幸福に満たされていた。
「神の家に寵愛の席を設けた音楽家」とシューマンはいっている。
〈ヴァイオリン協奏曲 ホ短調〉〈ピアノ協奏曲第二番〉〈真夏の夜の夢〉