世界の偉人筆跡カレンダー 1996年

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1996年 Calendar  





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1月 西郷隆盛 Takamori Saigo

1827.12.7~1877.9.24
明治維新の指導者。薩摩藩(鹿児島県)の身分の低い武士の家に生まれる。
1854年、藩主島津斉彬に側近として登用される。また、斉彬とともに一橋慶喜を将軍後継に推すが、斉彬死後、安政の大獄により情勢一変。奄美大島、沖永良部、2度島流しにあう。1866年、長州藩桂小五郎と薩長同盟を結ぶ。1868年、戊辰戦争で大総督軍参謀として指揮をとり、幕府軍を打ち破る。
勝海舟と会見して、江戸城の無血開城に成功した。1871年、岩倉具視、大久保利通に請われ政府入りし、廃藩置県など新政府の政策に尽力したが、1873年、征韓論争に破れ退官。
1877年、自身は野望を持っていないにも関わらず、私学校の不平士族に推され西南戦争を起こすも破れる。

2月 勝海舟 Kaishu Katsu

1823.1.30~1899.1.19
幕末の幕臣。貧しい旗本、勝小吉の長男として江戸、本所(東京都)に生まれる。通称麟太郎。
1855年、長崎の海軍伝習所でオランダ士官を師として海軍のことを学ぶ。
1860年、遣米使節に咸臨丸艦長として随行、日本船として初の太平洋横断に成功した。
1862年、将軍家茂の命で神戸に海軍操練所を設立、各藩の青年有志を教育した。
軍艦奉行に昇進、安房守となるも一度退任させられ、再び海軍奉行、のち陸軍総裁となる。
1868年、鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、官軍側の西郷隆盛と会見、公武の間に周旋し、江戸城無血開城の任を果たした。常に広い視野を持ち、世界における日本の立場を考慮した。
1873年、新政府の参議兼海軍卿に任ぜられ、1888年からは枢密顧問官となる。
著書に、「海軍歴史」(1888)、自伝「氷川清話」(1898)などがある。

3月 桂小五郎 Kogoro Katsura

1833.6.26~1877.5.26
幕末の志士、明治の政治家。
長州藩萩(山口県)の出身。父は藩医の和田昌景でのち桂九郎兵衛の養子となる。
桂小五郎は通称。のち木戸孝允と名のる。
1849年、松下村塾で吉田松陰に師事。
1864年、池田屋事件で新撰組に襲撃されるが難を逃れる。
1866年、坂本龍馬の仲介により大久保利通、西郷隆盛と薩長同盟を締結。
1868年、五箇条の御誓文の起草に参加する。
1871年、廃藩置県を中心に立って実施。
当初、征韓論を唱えていたが、1871年、岩倉遣外使節の副使として欧米を視察後、内治優先の姿勢をとり、啓蒙的な開明派と転じた。

4月 伊藤博文 Hirobumi Ito

1841.9.2~1909.10.26
明治の政治家。
長州(山口県)藩士伊藤十蔵の子として生まれる。
1856年、松下村塾に学び、吉田松陰から大きな影響を受けた。
1860年代前半、高杉晋作らと桂小五郎に従って尊攘運動に参加。
藩の命令で英国に留学。
1871年、岩倉遣外使節の副使として外国を回り、先進国の政治制度の実情を調べる。
1873年、征韓論を制圧。1882年、憲法調査のため渡欧し、プロシア憲法を学ぶ。
1885年、内閣制度創設、初代総理大臣となる。
1889年、大日本帝国憲法を発布する。枢密院議長、貴族院議長を歴任する。
内政改革に努力し、政党政治の基盤を築いた。

5月 橋本佐内 Sanai Hashimoto

1834.3.11~1859.10.7
幕末の開明派志士。
福井藩(福井県)の奥外科医彦也の子として生まれる。
1849年、大阪の緒方洪庵の適塾にて、蘭学、医学を学ぶ。
1852年、家督を継ぎ藩医となる。
1854年、江戸遊学で西郷隆盛らと親交。
1857年、洋学修学所を設けるなど、藩主松平慶永に認められ、藩政改革にあたる。
1858年、藩命で将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立に尽力。
同年、安政の大獄で捕えられる。
著書に「啓発録」(1848)。国際連合の出現を予想し、開国に積極的で、有用な人材による統一国家体制の樹立を考えていた。

6月 榎本武揚 Takeaki Enomoto

1836.8.25~1908.10.26
幕臣、明治の政治家。
江戸(東京都)に幕府御家人、圓兵衛の子として生まれる。
長崎の海軍伝習所で黒田清隆のもと、海軍操練、航海術を学ぶ。
オランダ留学から帰国後、軍艦乗組頭取、幕府海軍の重鎮として活躍する。
1868年、征討軍の江戸開城の際、幕府艦隊を率いて奥州に脱走。
同年箱館五稜郭を占拠して官軍により抗戦するも、官軍参謀黒田清隆の勧告により降伏する。
維新後、開拓史を命じられ北海道開拓に尽力。
1874年、海軍中将、駐露公使。
1875年、樺太、千島交換条約を締結した。

7月 大久保利通 Toshimichi okubo

1830.8.10~1878.5.14
明治維新を指導し、明治政府の基礎を築いた政治家。
薩摩藩(鹿児島県)の御小姓組、次右衛門の子として生まれる。通称一蔵。
1860年代、島津久光の下で公武合体運動を推進する。
1866年、薩長同盟を成立させ、藩論を倒幕へ導いた。
1869年、桂小五郎らと版籍奉還を実現。
1871年、廃藩置県を敢行、地租改正を建議する。
同年、岩倉遣外使節団の副使として欧米視察。
台湾出兵を計画して不平士族の懐柔を図り、渡清。
冷徹な理性と現実的な見通しをもち、明治政権の中心人物として独裁的な権力をふるった。

8月 吉田松陰 Shoin Yoshida

1830.8.4~1859.10.27
幕末の思想家。
長州(山口県)藩士の父杉百合之助常道と母滝との間に生まれる。
名は矩方。叔父の吉田大助の養子となる。
5才の頃より「孟子」の素読を始め、山鹿流軍学をおさめ、早くからその天才ぶりを発揮。
佐久間象山を師として洋学を学ぶ。1853年6月、ペリーの入港を知り裏浦賀に急行。
師の象山の開国論に傾倒、洋行を決意し、1854年に下田で密出国を図るが失敗し逮捕される。
1857年、松下村塾を主宰する。明治維新の功労者、高杉晋作、伊藤博文らを輩出。
討幕論の中心となり安政の大獄で捕えられる。
著書に「講孟箚記」、獄中で記した「留魂録」がある。

9月 坂本龍馬 Ryoma Sakamoto

1835.11.15~1867.11.15
明治維新への道を開いた幕末の志士。
土佐藩(高知県)町人郷士の父八平の子として生まれる。
小さな頃は弱虫でいじめられていたが、姉に鍛えられ、
1853年、千葉周作の門下で北辰一刀流を習得する。
1861年、勤王党に加盟、尊王攘夷運動に参加。
翌年脱藩し江戸に行き、勝海舟の弟子となる。
勝を助けて神戸に海軍操練所をつくり、幕府や各藩の若者たちと航海術を学ぶ。
1865年、討幕のため、西郷隆盛や桂小五郎と薩長同盟実現に奔走、翌年成立させた。
この頃、社中(のちの海援隊)を組織し、海運業に従事。
1867年、後藤象二郎に「船中八策」を示し大政奉還を企図する。

10月 佐久間象山 Shozan Sakuma

1811.2.28~1864.711
幕末の思想家。
松代藩(長野県)右筆であった父国善の子として生まれる。
本名国忠。妻は勝海舟の妹順子。
1833年江戸に出る。佐藤一斎に詩文を学び、江川坦庵に砲術、黒川良安に蘭学を学ぶ。
1839年、江戸神田に私塾象山書院を開設。
1851年、江戸深川の藩邸に私塾を開設する。
門下生に勝海舟、吉田松陰、橋本左内、坂本龍馬らがいる。
1854年、門人の吉田松陰の密航事件に連座し、幽閉。獄中、反省記「省諐録」を記す。
日本が国力をつけるためにも開国、交易が必要であるとして鎖国に反対し、公武合体論、開国論を説いた。

11月 高杉晋作 Shinsaku Takasugi

1839.8.20~1867.4.14
幕末の志士、政治家。
長州(山口県)藩士の父高杉小忠太の子として生まれる。本名春風。
1857年、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。
攘夷論の急先鋒。
1863年、藩命により攘夷実行のため奇兵隊を組織し総督となる。
1864年、英仏米蘭四国連合艦隊が下関を砲撃する情勢になったため、藩は高杉を講話使節に任命する。
同年、第一次長州征伐に際し藩政府と対立、反乱。
1865年、藩の実権を握り、藩論を討幕へと統一する。
1866年第二次長州征伐で幕府軍を潰敗させる。

12月 福沢諭吉 Yukichi Fukuzawa

1835.1.10~1901.2.3
幕臣。明治時代の思想家、教育家。
中津藩(大分県)下士の父百助の子として大阪で生まれる。
1855年、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、のち塾頭となる。
1858年、江戸に蘭学塾を開設。これがのちの慶應義塾の始まりである。
1860年、幕府遣外使節の随行を初めとし、計3回渡欧米。
帰国後、幕臣として外交事務に携わる。
1882年「時事新報」を創刊し、官民調和を主張。
儒教道徳を排し、「一国独立、富国強兵」を唱え、個人の自発精神を鼓舞。
近代的合理主義の姿勢を打ち出し封建制度に痛烈な批判をした。
著書に「学問のすゝめ」、「西洋事情」など。これらは当時の大ベストセラーとなる。