世界の偉人筆跡カレンダー 2003年

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2003年 Calendar  





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1月 国木田独歩 Doppo Kunikida

1871~1908
千葉県の銚子に生まれる。本名は哲夫。
父親の仕事の関係で幼少年期を山口県岩国で過ごす。
上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、英語を学んだ。
学校改革をもとめ、ストライキに参加し、学校を中退。日清戦争勃発とともに
国民新聞社に入り、従軍記者としてその記事が注目される。
26才の時、友人の田山花袋と日光のお寺で合宿した折り、花袋は執筆を日課としたが、
独歩は作品を書くといって散歩で日を費やした。数日後、処女作『源叔父』を脱稿。
4年後、文集『武蔵野』で認められる。初期の抒情的ロマン主義から後年、
自然主義へとすすんだ。散歩を愛し、話術でも人を魅了した。

2月 林芙美子 Fumiko Hayashi

1903~1951
山口県下関市に生まれる。本名はフミコ。
母キクの5人目の夫であり、行商人の沢井喜三郎を養父として
幼い頃から一家で各地を転々とした。女学校卒業後、恋人を追って上京する。
失恋してのち、女工、売り子、女中、女給など多くの職についた。
その人生経験を日記体で著した小説『放浪記』が『女人芸術』に連載され、
昭和5年、改造社から出版されるとベストセラーとなった。
その後、『風琴と魚の町』『清貧の書』『泣蟲小僧』『稲妻』を発表。日中戦争の時は
従軍作家として活躍した。戦後も旺盛な創作ぶりを発揮し、『うず潮』『晩菊』そして代表作
『浮雲』を発表した。東京の新宿区中井に晩年住んだ家が保存されている。

3月 泉鏡花 Kyoka Izumi

1873~1939
石川県金沢市に生まれる。
10代後半、作家尾崎紅葉の下に入門する。
『夜行巡査』『外科室』で新進作家として注目された。
鏡花は、自分の作品を人に聞いてもらわないと気が済まないところがあり、仲間を困らせたという。
やがて濃厚な作風の『高野聖』花柳情緒の『婦系図』幽幻的な『歌行灯』など、名作を発表する。
犬嫌いで雷が嫌いで、浪花節が嫌いだった。そのために、策動され、
一時、作品を発表できない時期があった。ある時、娯楽雑誌から好条件で依頼が来たが、
熟考の末断った。その雑誌が浪花節の速記を載せていたからだ。
しかし鏡花がいちばん恐れたのはかび菌であったという。

4月 梶井基次郎 Motojiro Kajii

1901~1932
大阪市に生まれる。
東京帝国大学英文科中退。同人誌「青空」を舞台に小説家を志す。
当時の文学青年が、文人のかからなければならない病のように思っていた肺結核に
若くしてかかった。転地療養に訪れた伊豆湯ヶ島で、川端康成や宇野千代、尾崎士郎、
萩原朔太郎ら多くの文人を知る。昭和6年、生前唯一の創作集『檸檬』が刊行された。
舞台は大正期の京都の街。主人公が檸檬を買った「八百卯」は二条通が寺町通とつきあたり、
大きく蛇行する交差点に今もある(2009年閉店)。作家伊藤整は「心内にイメージを花園のように
絶えず培養し、豊かにし、育てている」と梶井の創作過程を語っている。

5月 二葉亭四迷 Shimei Futabatei

1864~1909
尾張藩士の子として江戸市ヶ谷に生まれる。本名は長谷川辰之助。
4才の時、名古屋に移り、士族としての教育を受ける。
松江に移り、内村友輔の相長舎で儒学を学ぶ。士官学校を受けるが、三度失敗。
仕方なく東京外国語学校露語科に入学。ニコライ・グレイの講義で文学に開眼する。
最終学年の年、東京商業学校(現・一橋大学)に吸収されるが、のち退学。
その後、坪内逍遥に出会い、ロシア小説の翻訳と執筆を始める。
明治20年から22年にかけて『浮雲』を発表した。愛犬が盗まれ、本郷、浅草、上野などを
探し回ったが、その体験がのちに小説『平凡』へと結実する。

6月 太宰治 Osamu Dazai

1909~1948
生家は青森県内有数の大地主でその六男として生まれる。
屋号は津惣(つそう)のち、やまげんといった。
現在敷地内に斜陽館という記念館がある。本名は津島修治。
代表作に斜陽族なる流行語を生み、太宰をして戦後文壇の寵児たらしめた『斜陽』がある。
実家の没落を目の当たりにした作家の、滅びゆく高貴な日々への挽歌であろうか。
その他、前衛的な方法で表現された『HUMAN LOST』から平明な作風の『富嶽百景』
『女生徒』に移行し、『走れメロス』などの好短編を著した。
晩年、人間恐怖の自画像というべき『人間失格』を残し、世を去る。

7月 八木重吉 Jukichi Yagi

1898~1927
東京府南多摩郡堺村(現・町田市)に生まれる。
東京高等師範学校に進む。キリスト教徒になるが、内村鑑三に感化され、
無教会主義に近づく。卒業後、兵庫県御影師範の英語教師になる。24才で島田とみと結婚。
これを機に詩作に集中し、自らの信仰を確かめる。大正14年処女詩集『秋の瞳』を刊行する。
「日本詩人」その他の誌上に作品の発表を見るようになる。
千葉県の東葛飾中学に転任するが、翌年から病臥。病の床で第二詩集『貧しき信徒」を編むが、
その刊行を見ないまま他界した。子どものような詩をのぞむといった詩境は純一であり、
日本のキリストに関する詩の最高のものと草野心平はいった。

8月 新美南吉 Nankichi Niimi

1913~1943
愛知県知多郡半田町に生まれる。本名は渡辺正八。
4才の時、母が他界し、8才で母の実家の養子となった。新美は母方の姓である。
東京外国語学校英語部卒業。半田中学在学中から「少年倶楽部」「愛誦」などに投稿し、
級友たちと作品朗読会を開く。また同人誌「オリオン」を出すなどして早熟な文学少年であった。
卒業前後に書いた『ごん狐』『正坊とクロ』などの童話が鈴木三重吉に認められて
「赤い鳥」に掲載される。最初の単行本『良寛物語・手毬と鉢の子』が昭和16年に、
翌年『おぢいさんのランプ』が刊行される。他に、『花のき村と盗人たち』
『牛をつないだ椿の木』など、童話や詩、動揺を多数著した。

9月 徳冨蘆花 Roka Tokutomi

1868~1927
熊本県水俣に生まれる。本名は健次郎。
京都同志社に学ぶが、新島襄の義姪との恋を反対され、出奔してしまう。
上京して、兄蘇峰の経営する民友社に入り、「国民之友」「国民新聞」「家庭雑誌」に
さまざまな文章を書いた。この頃、『不如婦』を連載し、小説家として認められるとともに
『自然と人生」に見られる自然描写に盧花らしさが表れる。『思出の記』を経て民友社と決別し
精神的にも経済的にも兄から自立した。のちパレスチナを巡り、ロシアにトルストイを訪ねる。
帰国し、世田谷粕谷で半農生活を始める。「盧の花は見所とてもなく、と清少納言は書きぬ。
その見所なきを余は却って愛するなり」といい、盧花の号を用いた。

10月 尾崎紅葉 Koyo Ozaki

1867~1903
江戸の芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。
緑山、半可通人、十千萬堂などの雅号もある。幼時に母を亡くし、
のち母方の実家で養育された。大学予備門に入り、学友石橋思案や山田美妙らと
文学結社「硯友社」を興し、同人誌「我楽多文庫」を発行した。
のち、幸田露伴、坪内逍遥とともに読売新聞に迎えられ、同社の新聞小説を書き始める。
東京帝国大学を中退。生粋の江戸っ子で筆は艶麗、酒脱、雄々しく闊達、
いちめん無骨な田舎武士風でもあった。『二人比丘尼色懺悔』を出世作とし、
『伽羅枕』『多情多恨』『金色夜叉』など多彩な作品で明治の文壇を風靡した。

11月 坪内逍遥 Shoyo Tsubouchi

1859~1935
安政6年美濃国(岐阜県)加茂郡太田村に生まれる。
本名は勇蔵、のちに雄蔵と改める。
東京大学文学部政治経済科の時、英語ができなくて一度落第した。
アメリカ人教授から「ハムレットにおける王妃ガートルードのキャラクターを批評せよ」と出題され、
キャラクターの意味がわからず、道徳的解釈をして悪い点がつけられた。
それをきっかけに西洋の文芸批評を読みあさり、以来江戸式の伝統的な解釈を捨てたという。
シェークスピアの翻訳、紹介の第一人者となる。自らの戯曲に、代表作『桐一葉』があり、
小説の革新、演劇改良運動にもつくし、文芸教会を設立した。

12月 小泉八雲 Yakumo Koizumi(Lafcadio Hearn)

1850~1904
イギリス名ラフカディオ・ハーン、のち日本に帰化した。
ギリシャのレフカス島で生まれる。幼時にアイルランドのダブリンに移り、
母と生別し、大伯母に育てられる。カトリック系の学校で教育を受けるが、
家庭の崩壊、神父に対する反発、左目の失明、大伯母の破産などに遭い、
19才の時アメリカに渡る。シンシナティ市で新聞記者となり、モーパッサン、ツルゲーネフ、
ゾラなどの作品を翻訳発表。明治23年、雑誌の特派員として来日。松江中学で教壇に立つ。
旧藩士の娘小泉節子と結婚。日本の怪談に興味を持ち、部屋を暗くして妻に読ませ、
語らせたという。短編小説集『KWAIDAN』はこうして生まれた。