世界の偉人筆跡カレンダー 2004年

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2004年 Calendar  





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1月 ジャン=フランソワ・ミレー Jean-Francois Millet

1814~1875
フランスのノルマンディー地方グリュシーで、信心深く格式ある農家に生まれる。
幼い頃から読書を好み、画才に優れていた。
1837年、パリに出て、ドラローシュのアトリエに入る。
1840年、肖像画がサロンに初入選。シェルブール市から奨学金をもらっていたが、
それが切れると貧窮し、ロココ風の裸体画などを描き、生計を立てた。
1846年頃から労働する人々を題材に描くようになり、49年コレラの流行で一家揃って、
バルビゾンに移る。同じ村に住むルソーと親しくなり、ルソーが自然風景を描いたのに対し、
ミレーは働く人々のポーズを通じて、その苦痛やそれを克服する人間の尊厳を描こうとした。
主な作品に『晩鐘』『落穂拾い』『種をまく人』など。

2月 ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル Jean Auguste Dominique Ingres

1780~1867
フランスのモントーバンに画家の息子として生まれる。
トゥールーズの王立アカデミーで絵を学び、17才でパリに出て
当時全盛であったダビッドのアトリエに入った。
古代と古典の美術を勉強し、21才の若さでローマ賞を獲る。
1806年ローマに渡り、ラファエロの画風を学んだ。のち、フィレンツェに4年滞在。
生活のために描いた肖像画は優美さと清新なリアリズムで高い評価を得る。
宗教画『ルイ13世の誓い』をパリのサロンに出品。
その後、レジオン・ドヌール勲章を受け、美術アカデミー会員に選ばれた。
35年、ローマのフランス・アカデミー院長に選ばれ、6年務める。
彼の筆力は晩年まで衰えることがなかった。
主な作品に『グランド・オダリスク』『泉』『トルコ風呂』など。

3月 ヨーハン・バルトルト・ヨンキント Johan Barthold Jongkind

1819~1891
ドイツ国境に近いオランダのラトロプに生まれ、ロッテルダム近郊で育った。
ハーグの美術学校で学んだのち、1846年、パリに移住する。ロマン派の画家イザベーに師事。
48年、サロンに初入選、以後もたびたび出品する。この頃ルソーやコローらと親交を結んだ。
55年から60年まではロッテルダムに滞在したが、その後フランスに永住した。
50年代末から60年代初頭にかけて太陽光の輝きを再現する斬新な画風を確立する。
若きモネを初め、シスレーやピサロの芸術形成に多大な影響を与えたことから、
印象派の先駆者とみなされている。しかし彼自身は、戸外での油彩画制作は行っていない。
ボードレールやゴンクール兄弟など、多くの批評家から賞賛された。

4月 オーブリー・ビンセント・ビアズリー Aubrey Vincent Beardsley

1872~1898
19世紀末の代表的挿絵画家。イギリスのブライトンに生まれる。
建築事務所、保険会社などに勤めたのち、1891年、画家を志した。
独学でラファエル前派やホイッスラー、日本の浮世絵版画を学び、形態を自由にデフォルメし、
流麗な線と白黒の対比が鮮やかな素描で退廃の色濃い特異な装飾的な画風を創り出した。
『アーサー王の死』を最初に、『ステュディオ』、オスカー・ワイルドの『サロメ』、
ゴーディエの『マドモアゼル・ド・モーパン』、フロベールの『ボヴァリー夫人』などの挿絵を描いた。
結核に冒され、虚弱な心身は屈折した官能の世界を彷徨し、
後期の作品はポルノグラフィックな傾向が強くなった。

5月 ジュール・パスキン Jules Pascin

1885~1930
スペイン系ユダヤ人を父に、イタリア人を母にブルガリアに生まれる。
エコール・ド・パリの代表的画家。
ウィーンで学んだのちミュンヘンに移り、若くして政治風刺週刊誌『ジンプリツィシムス』に
参加した。1905年にパリに出るが、1914年第一次世界大戦が勃発するとパリを去ってアメリカに
亡命し、アメリカ国籍を取る。1918年画家エルミーヌ・ダビッドと結婚。
1920年パリに戻り、モンマルトルのアトリエでもっぱらモデルを描いた。
どことなく漠として同時にシニカルな人物描写が特徴であった。
デッサン帳を片時も離さず、また多くの水彩画を描いた。
つねに旅をして、大都市のバーやカフェに通った。
主な作品に『横たわるモデル』『花束を持つ少女』など。

6月 カール・ラーション Carl Larsson

1853.1919
スウェーデンのストックホルム旧市街にあるプレーストガータンに生まれる。
両親は農家と職人の出で、母方の祖父から芸術的才能を受け継いだ。
学校の教師が絵の才能を見出し、王立美術学校の予備課程へ導いてくれた。
1877年学校を卒業するとパリに出る。サロンでは落選を繰り返し、なかなか芽が出なかった。
1980年代にようやく外光のリアリズムを取り入れた水彩画として自らを見出す。
1983年作品がサロンに認められ、入選し、やがてパトロンとなる実業家
ポントゥス・フュシュテンベリーと知り合う。同年6月、画家のカーリン・ベーリェーと結婚した。
主な作品に水彩画シリーズ『わたしの家』、『私の家族』『演劇の誕生』など。

7月 ジャック・ルイ・ダビッド Jacques Louis David

1748~1825
パリに生まれる。フランスの新古典主義の代表的画家。1774年、ローマ賞を獲得し、
翌年からローマに留学する。堅固な造形法と力強い陰影法をルネッサンス以降の絵画から学ぶ。
批評家カトルメール・ド・カンシーとの親交から古代芸術の様式の構築性と古典的主題の偉大さに
目覚め、ロココの軽妙酒脱を放棄した。新古典主義の理想はパリ帰国後、
1784年『ホラティウス兄弟の誓い』、1787年『ソクラテスの死』などによって達成された。
1789年フランス革命直後のサロンに『ブルトゥスのもとに息子の遺骸を運ぶ警士たち』を出品、
革命派画家として活躍。1794年ロベスピエールの失脚に伴い、投獄される。
1804年ナポレオン皇帝即位と共に主席画家となる。
大作『ナポレオンの戴冠』を初め皇帝を称揚する絵画を次々制作した。

8月 ジョルジュ・フェルディナンド・ビゴー Georges Ferdinand Bigot

1860~1927
パリに生まれる。エコール・デ・ボザール(国立美術学校)卒業後、ゾラの小説《ナナ》の挿絵を描く。
ゾラや批評家ゴンスらとの交際を通じてジャポニズムの影響を受け、
1882年、日本美術研究のため来日し、2年間陸軍士官学校の画学教師を務めた。
1885年《団々珍聞(まるまるちんぶん)》に漫画を寄稿、また日本をテーマに3冊の銅版画集を出版した。
1887年から横浜居留地で漫画雑誌『トバエ』を初めとする風刺雑誌や風刺画集を刊行し、
条約改正や日本をめぐる内外の政局を描く。1891年、『東京芸者の一日』を刊行、
練達な画技と細緻な観察眼を示した。日本女性と結婚し、一子をもうけるも、
居留地廃止や官憲の弾圧をおそれ帰国する。日本人と日本の国を、風刺を交えて海外に紹介した。

9月 ギュスターブ・モロー Gustave Moreau

1826~1898
パリに生まれる。父は建築家で典型的なブルジョワジーの一人息子として育てられる。
写実主義のクールベや初期印象派のマネらと同世代であったが、当時の画壇には背を向けて
神話と伝説の世界を描き続けた。20才でエコール・デ・ボザールに入学し、
フランソワ・ピコのアトリエに学ぶも、師の新古典主義の教育より画家シャセリオーに心酔、
私淑する。1857年からイタリアに遊学。ダ・ビンチやミケランジェロらルネッサンス絵画や
ポンペイの壁画などを模写研究する。1864年、『オイディプスとスフィンクス』をサロンに出品。
画面構成の特異で注目された。1876年、『サロメ』『出現』『ヘラクレスとレルネのヒュドラ』
など、内なる幻想を一気に吐露するように発表した。

10月 オノレ・ドーミエ Honoré Daumier

1808~1879
フランスのマルセイユに生まれる。戯画家、画家、彫刻家。父はガラス店を営んでいたが、
詩人を夢見てパリに移住。少年時代は生活費を稼ぎながら、絵画や石版術を学んだ。
雑誌『カリカチュール』『シャリバリ』を舞台に石版風刺画家として声価を確立する。
1830年作の、洋梨風の国王をどん欲な巨人にみたてた『ガルガンチュア』で6ヵ月間投獄される。
腐敗した議会を『立法府の腹』で表し、官憲の暴力を『トランスノナン街』で風刺するも
検閲が厳しくなった。それでも二月革命から第二帝政期、普仏戦争期には、軍国主義帝政擁立者の
典型として政治的な作品が見られる。代表作は物欲に憑かれた小市民『ロベール・マケール』や
『共和国』『洗濯女』『ドン・キホーテ』など。微妙な明暗法や逆光の効果を駆使した。

11月 カジミール・セベリノビッチ・マレービチ Kazimir Severinovich Malevich

1878~1935
ロシアのキエフ近郊に生まれる。ロシアからソ連時代までを生き抜いた抽象画家。
モスクワの絵画・彫刻・建築学校に学ぶ。民芸風の素朴な画風から立体未来派へと展開した。
1913年、分析的キュビズムとロシア未来派の詩の影響を受けて言語イメージと関連する作品
『牛とバイオリン』を発表。マチューシンのオペラ《太陽の征服》の舞台背景に幾何学形態を
絵画記号として使用することを思いつき、その後これをシュプレマティズムの作品として描き、
15年、一挙に35点を発表した。代表作『黒い正方形』は、形態のゼロとして描かれたもので
キュビズムをさらに一歩進めた理性の芸術となっている。革命後、UNOVIS(新芸術肯定)
グループを結成。シュプレマティズムを二次元絵画から三次元へと展開させた。

12月 ワシリー・カンディンスキー Wassily Kandinsky

1866~1944
ロシアのモスクワに生まれる。おもにドイツで活躍した。法学、経済学を修めたのち、
30才で画家をめざし、ミュンヘンに出る。1909年、ミュンヘン新芸術家協会の設立に関わり、
前衛美術を推し進めた。11年、ドイツ表現主義のグループの一つ、
ブラウエ・ライター(青騎士)を創設。第一次世界大戦期ロシアに戻り、
革命政府の芸術政策に協力する。21年またドイツへ戻り、
ベルリンなどでバウハウス教授を務める。33年、バウハウス閉鎖を機にフランスに亡命した。
画風は、初期の印象主義的なものから色彩を強調し形態をデフォルメしたものへ、
さらに内的イメージの抽象表現へと進んだ。『点、線から面へ』など著作も多い。