世界の偉人筆跡カレンダー 2005年

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2005年 Calendar  





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1月 狩野探幽 Tanyu Kano

1602~1674
江戸前期の画家。狩野孝信の長子として京都に生まれた。
永徳の孫にあたり、本名を守信という。1612年10才の時、駿府で徳川家康に拝謁した。
江戸幕府の安定とともにその居城修築に必要な画家が江戸に招かれたため、
守信も父に従い江戸に下り、15才で元服し、御用絵師となった。34才で出家し、探幽と号する。
ねずみを描けば猫が寄ってくるといい、菊を描けば蝶が舞うが如く人物山水草木鳥獣すべてに
不得手というものがなく、水戸光圀を初め、伊達政宗など、諸大名にその才能を愛された。
狩野派のみならず光琳や応挙など、以後、江戸時代の絵画界に及ぼした影響は計り知れない。
大徳寺万丈の墨画淡彩の襖絵、名古屋城上洛殿の障壁画は最も有名である。

2月 尾形乾山 Kenzan Ogata

1663~1743
江戸中期の陶工、画家。京都の東福門院の御用呉服物商雁金屋(かりがねや)の三男として
生まれた。光琳の弟である。陶器には乾山の号を用い、絵画には深省と署した。
野々村仁清に陶法を学び、1699年京の乾(北西)の鳴滝で開窯し、乾山と称した。
1712年二条丁字屋町に移り、粟田、清水の窯を借り製陶を続けるも、
70才の頃上野輪王寺宮公寛法親王を頼って江戸へ下った。入谷などに窯を築き、晩年を送った。
乾山の芸術は、一つは漢画的気迫に満ち、もう一つは繊細な和国趣味で、
両者が時に美しく調和し、あるいは変化豊かな作風をなしている。
陶器は光琳の絵画との合作に優品が多い。
「陶工必用」「陶磁製方」など陶法伝書も書いた。

3月 仙厓 Sengai

1750~1837
江戸後期の臨済宗の僧。美濃国(岐阜県)の貧しい家に生まれる。間引きに遭うところを
近くの寺に拾われ、10才の時、清泰寺の空印円虚のもと得度、義梵の名を授かる。
18才の時、武蔵東輝庵の月船禅慧に師事。ここで研鑽を重ねたのち、
行雲流水の托鉢行の旅に出た。博多に下り、1789年聖福寺の住持となる。
1811年61才で法席を退いて虚白院に隠棲し、人々に詩文や書画を書き与えた。
「坐禅して人が仏になるならハ」「を月様幾ツ十三七ツ」
「鶴ハ千年 亀ハ万年 我は天年」など、禅の境地をわかりやすく説き示す
軽妙酒脱でユーモアに富んだ作品は味わいが深く、人にふっと笑顔をもたらす。

4月 浦上玉堂 Gyokudo Uragami

1745~1820
江戸後期の画家で七絃琴の名手。姓を紀、名を孝弼という。
岡山城主池田家の支藩鴨方の池田家に仕えた父宗純が没し、幼少でありながら家督を継いだ。
早くより琴を習い、仕官の間に何度も江戸に上り、幕府の医官多紀藍渓の門に入った。
また絵画を学び、玉田黙翁について儒学も修めた。妻に先立たれ、その翌々1794年
二人の息子を連れ脱藩する。出奔後、江戸に行った。雅楽を再興するため、会津各地を遊歴し、
その足跡は東奥から九州にまで及んだ。著書に雅楽の催馬楽(さいばら)の歌詞に曲をつけた
「玉堂琴譜」、「玉堂雑記」などがある。絵画では「凍雲篩雪図」「山紅於染図」などがあり、
日本南画史上の傑作である。

5月 河鍋暁斎 Kyosai Kawanabe

1831~1889
幕末・明治前期の画家。下総国(茨城県)古河に生まれる。家は穀商であったが、
父が古河藩士河鍋家の養子になり、ついで幕府定火消し同心甲斐家の株を買い、江戸に出た。
7才の頃、浮世絵師歌川国芳の門に入り、のち狩野派の前村洞和、狩野洞白に学んだ。
安政大地震で仮名垣魯文の戯文になまず絵を描き、これにより浮世絵師として人気を得た。
この頃、「狂斎」と称し、浮世絵を初め、戯画、額絵、行灯絵など、何でもこなした。
上野不忍弁財天境内において書画会が開催された折り、
政府高官を揶揄する風刺画を描いて投獄された。以後、画号を暁斎と改めた。
その活動は最晩年まで及び、狩野派から浮世絵まで多彩で独自の作を残している。

6月 伊能忠敬 Tadataka Ino

1745~1818
江戸後期の測量家。上総国(千葉県)小関村に神保三治郎として生まれる。
18才の時、下総国佐原村の名家伊能家に婿養子に入った。酒造業や米穀取引業を行い、
大いに商才を発揮し、家運をもり立てた。のち名主となり、1783、1786年の天明の飢饉には
私財を投じて窮民を救い、一人の死者も出さなかった。44〜45才頃から暦学、数学などを独学。
50才で家を長男に譲り、翌年江戸に出て幕府天文方高橋至時(よしとき)の門に入り、
天文学、測量術を学ぶ。蝦夷地(北海道)南東沿岸の測量を幕府に願い出て、許され、
1800年、自費で測量し、地図を作った。のちその実力が認められ、幕吏に登用された。
以後17年間かけ全国を測量し終えた。「大日本沿海輿地全図」の制作中73才で没す。

7月 渡辺崋山 Kazan Watanabe

1793~1841
江戸後期の画家、蘭学者。三河国(愛知県)田原藩江戸屋敷に渡辺定通の子として生まれる。
8才の時留守番中に来客があったが、崋山はその人物を描き、判明したという。
白川芝山、谷文晁らに画を学び、伝統画法の上に西洋画の遠近法と立体的な彩色法をも得た。
初期の「一掃百熊図」、江戸写生図の「四州真景図巻」などは傑作である。
蘭学を学び、高野長英、小関三英らを知り、幕臣や諸藩の知識人らと交流する。
のち幕政批判をし、国元に蟄居を命じられたため、もっぱら画筆に親しんだ。
弟子が家計の一助にと画会を開いたが蟄居中不謹慎と悪評が立つ。
家族や藩主に迷惑が及ぶのを恐れ、自ら命を絶った。

8月 平賀源内 Gennai Hiraga

1728~1779
江戸中期の本草学者、戯作者。讃岐国(香川県)志度浦に生まれ、父は高松藩の蔵の番役人、
白石良房である。戯作号を風来仙人、浄瑠璃では福内鬼外と称した。1752年長崎に遊学、
医学蘭学を学び、1754年江戸に出た。田村藍水に本草学を学ぶ。1757年、田村と共に日本で
最初の物産会、薬用動植鉱物の展覧会を湯島で開催した。出品物を観察し、博物書「物類品隲」
を著したり、多方面で物産開発事業を手がけた。1764年火浣布(耐火用石綿布)を製造、
翌年から秩父の金山や鉱山の採掘も試みた。再び長崎に遊び、オランダ焼きの製陶法を
源内焼きとして讃岐に伝えた。綿羊を飼育し毛織物製造を企てたり、長崎でもらった
摩擦起電気を復原してエレキテルと称したり、時代の寵児であった。

9月 仮名垣魯文 Robun Kanagaki

1829~1894
幕末・明治前期の戯作者。江戸京橋に生まれる。家は魚屋だったが、口減らしのため、
新橋鳥羽屋に奉公に出される。そこで文人細木香以に可愛がられて戯作者を志した。
花笠文京に入門するも主家を出て放浪、瓦版、流行端唄、合巻などを執筆。
1854年湯島の妻恋坂に初めて一戸を構え、著作業をもって世に立つことを決心。
表に「談笑諷諫滑稽道場 御誂案文認所江戸作者 鈍亭魯文」の看板を出し、
戯作や広告案文、手紙の代筆なども引き受けた。1860年滑稽本「滑稽富士詣」で認められた。
維新後、「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」「胡瓜遣」などに際物師的手腕を発揮し、
「今日」「仮名読」「いろは」など各新聞や雑誌にも大いに執筆した。

10月 滝沢馬琴 Bakin Takizawa

1767~1848
江戸後期の黄表紙、合巻、読本作者。松平家の用人の子として江戸深川に生まれる。
本名は興邦、のち解(とくる)。号は曲亭馬琴、著作堂主人など。父の没後、馬琴も一時
松平家に仕えたが、14才の時「木がらしに思ひたちたり神の供」の句を障子に書き残し、
累代の主家を出奔。放浪生活をする間に戯作者を志し、1790年、山東京伝の門をたたいて
弟子入りを請うた。翌年「尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)」という黄表紙を
大栄山人の名で出版。1793年下駄屋の会田お百の婿になり、生活の安定を得て著作に没頭した。
生涯300余篇の作を残したが、中でも「南総里見八犬伝」全106冊、
「椿説弓張月」「俊寛僧都島物語」8巻などは有名である。

11月 緒方洪庵 Koan Ogata

1810~1863
江戸末期の蘭学者、医学者、教育学者。備中国(岡山県)足守藩士佐伯惟因の三男として生まれる。
1825年大阪に移り、翌年医学を志し蘭学者中天遊に学ぶ。21才の時、師の勧めで江戸に出て
坪井信道、宇田川棒斎に師事。1836年長崎に行き、オランダ医ニーマンに従って研究を積む。
この時より洪庵と名のる。1838年大坂に戻り開業する。そのかたわら蘭学塾適々斎塾(適塾)を
興し、幕末から明治にかけて活躍した大村益次郎、福沢諭吉、
橋本左内など多くの人材を育てた。1858年コレラが大流行し、死者は数万人に及んだが、
洪庵は昼夜を問わず患者の治療にあたった。臨床治療の「虎狼痢治準」を著して出版。
1862年幕府から請われ、奥医師兼西洋医学所頭取となった。

12月 円山応挙 Okyo Maruyama

1733~1795
江戸中期の画家。円山派の祖。丹波国(京都府)穴太(あのう)村に円山藤左衛門の
次男として生まれる。17才の頃、狩野派の画家石田幽汀の門に入る。
またオランダのめがね絵から西洋画の透視遠近法や陰影法を習得。
さらに洋画の人体解剖や動植物の写生技法をとりいれ、中国の克明な院体画風の花鳥画、
写生画をも学び、それらを融合させた新様式を樹立した。若い頃は貧しく、漆器蒔絵の下絵、
のぞきからくりのめがね絵などで生計を立てたが、蓮池院尼公に召され、
円満院門主祐常や三井家の後援を得て、画業が大いに進んだ。1790年内裏造営の折りには、
障壁画の筆者に選ばれた。後年目を病んだが、「保津川図屏風」は死を前にしての傑作である。