世界の偉人筆跡カレンダー 2006年

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2006年 Calendar  





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1月 マーク・トウェイン Mark Twain

1835~1910
アメリカの小説家。ミズーリ州フロリダに生まれる。本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ。
12歳で父親を失い、印刷所で植字工見習をしながら文学的な感性を磨いた。
その後ミシシッピ川の蒸気船の水先案内人となる。
筆名マーク・トウェインは、蒸気船の安全航行水域を意味する。新聞に旅行記を寄稿し、
1865年ニューヨークの新聞に発表した『ジム・スマイリーとその跳ね蛙』が好評を博し、一躍有名に。
35歳の時に裕福な石炭業者の娘オロヴィアと結婚。『トム・ソーヤーの冒険』『王子と乞食』や
『ハックルベリー・フィンの冒険』など、ユーモア溢れるアメリカ西部の口語体で書かれた作品は
アメリカ近代文学を代表する名作であり、後に多くの影響を与えた。

2月 ヴァージニア・ウルフ Virginia Adeline Woolf

1882~1941
イギリスの小説家。ロンドンに生まれる。父のレズリー・スティーブンは
有名な文芸評論家で哲学者であり、その友人たちの、知的で文学的雰囲気に囲まれ育った。
弟エイドリアンのケンブリッジ大学の友人を中心にした若い知識人の集まり
「ブルームズベリー・グループ」の一員として執筆活動をする。
1912年、このグループの一員であったレナード・ウルフと結婚し、共に出版社を経営した。
1915年処女作『船出』を出し、ついで『夜と昼』『ジェイコブの部屋』を発表した。
さらに、彼女の小説世界を開花させた傑作『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『波』が生まれる。
その文学的な特色は、筋書きよりも内面描写を重視した、詩的な文体の美にある。

3月 ブルーノ・タウト Bruno Taut

1880~1938
ドイツの建築家。プロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア連邦、カリーニングラード)に生まれる。
ライプチヒで開かれた建築博覧会で「鉄の記念塔」を設計し、注目された。
1914年、ドイツ工作連盟展で「ガラスの家」を設計。1917〜1920年には壮大な建築の叙情詩
『アルプス建築』等を発表。1921年よりマグデブルク市の建築課長として都市計画に携わり、
また建築物の内外に諸色を塗装する「色彩建築」を試みた。ベルリンで集合住宅を数多く手がけ、
のちシャルロッテンブルク工業大学教授になる。モスクワに招かれ、大建築の設計に従事するも
辞してベルリンに帰る。ナチス政権の確立と共にシベリアを経て日本へ渡る。『日本文化私観』
『日本美の再発見』などを著した。「すぐれた機能は美しい形を持つ」という思想を建築で実践した。

4月 ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin

1706~1790
アメリカの政治家・発明家・著述家。イギリス系移民の子としてボストンに生まれる。
10歳で学校をやめ、父のろうそく製造業や兄の印刷業を手伝う。
ロンドンで印刷工として働いたのち、フィラデルフィアに戻り、
1729年、『ペンシルヴァニア=ガゼット』紙を発行。またアメリカで最初の雑誌も刊行する。
さらに、巡回図書館、アメリカ哲学協会を設立、ペンシルヴァニア大学設立の援助をし、多くの事業を
手がけた。避雷針を発明し、凧の実験で稲妻と電気の放電が同一であることを証明した。
独立宣言起草委員に選ばれ、イギリスとのパリ講話条約でアメリカ合衆国の独立を承認させた。
わが子に宛てて書いた『フランクリン自伝』はアメリカ散文文学の傑作である。

5月 ゲオルグ・ジモン・オーム Georg Simon Ohm

1789~1854
ドイツの物理学者。ドイツ、バイエルン地方に錠前屋の子として生まれる。数学の才能が評判で、
大学に入学したが、学費が続かず退学する。スイスで数学教師をして学費をかせぎ、
再び大学に戻り1811年に卒業。ケルンの高等学校で数学と物理の教師をする。
このときに「導体を流れる電流の強さは、導体両端の電位差に比例し、電気抵抗に反比例する」
という「オームの法則」を発見したが、あまり評価されなかった。
ニュルンベルク工科学校教授に就任したのちイギリス王立協会から初めて認められ、
コプリー・メダルを授与された。年来の夢であったミュンへン大学教授になる。
電気抵抗の単位「オーム」は、彼の名にちなんでつけられた。

6月 ジュール・ラフォルグ Jules Laforgue

1860~1887
フランスの詩人。南米ウルグアイに生まれる。6歳のとき家族で南フランスに移り、
ピレネー山脈に近い町で過ごした。リセ・フォンターヌを卒業後、書店の仕事を手伝いながら
デカダン派の詩人たちと交わり詩作を始める。1881〜1886年まで、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の妃アウグスタの読書係としてドイツ各地に滞在した。
1885年『なげきうた』を発表し、ついで『聖母なる月のまねび』で自由詩を創始した。
1886年、イギリス人の娘と結婚。ドイツの哲学者ショーペンハウアーや仏教等の影響を受け、
その詩はアイロニーによって生への嫌悪感と生の傷つきやすさから自らを解放しようと試みている。
詩句の音楽性という点で、ヴェルレーヌと並び称される。

7月 ヴィルヘルム・カール・グリム Wilhelm Karl Grimm

1786~1859
ドイツの文学者。グリム兄弟の弟で本名ヴィルヘルム・カール。ヘッセン王国のハーナウに生まれる。
父は早くに他界し、おばの援助で兄と共に大学に通った。地方に出向いて集めた民話を編集し、
1812年『子供と家庭のための童話』を出版した。これが好評で、1815年に続編を出版する。
これが後に『グリム童話』となった。兄は陸軍省で書記を務め、ウェストフェリア王の
王室図書館員となるが、体の弱かった弟ヴィルヘルムはカッセルに残り、選帝侯図書館の秘書となる。
1829年に二人はゲッティンゲンに移り、兄は教授、図書館長、弟は副館長に就任する。
また兄は言語研究、弟は昔の文学を甦らせる研究を続けた。
1840年に両者はプロイセン王に招かれ、ベルリンで教授となった。

8月 ジョン・ドルトン John Dalton

1766~1844
イギリスの化学者。イングランド、カンバーランドの村に生まれる。独学で勉強し、わずか12歳で
小学校の教師となり、さらに町の私立学校の教師となった。また、マンチェスターの私立専門学校に
招かれ、数学と自然科学を教える。自分が色覚異常であることを知り、これを初めて科学的に研究した。
21歳の時から気象観測を始め、終生続ける。論文「雨と露の量」を口頭発表。
気象から気体の性質の研究へ進み、1801年「混合気体の分圧の法則」(ドルトンの法則)を発表した。
現在の原子論に直接つながる近代原子論の基礎を築いた。初めて、酸素の原子、水素の原子というように
それぞれの質と重量(原子量)を異にした原子と原子記号を考え出し、化学的原子論の創始者となる。
また、新原子論の普及にも努め、1808年『化学の新体系』を著した。

9月 ルイ・パストゥール

1822~1895
フランスの化学者、細菌学者。フランス東部のドールで皮革業者の家に生まれる。
パリのエコール・ノルマル(高等師範学校)に学んだ。最初、酒石鹸の結晶とその溶液の旋光性に
研究をし、続いて、分子内の原子配列の問題や発酵を研究、乳酸菌や嫌気性菌である酪酸菌を
発見した。さらに論争の的であった発酵現象の「自然発生説」を実験によって否定。
リール大学に葡萄酒の腐敗を防ぐための低温殺菌法を考案し、これによりフランスの葡萄酒製造業は急成長した。また、蚕の伝染病の予防法を発表、フランスの養蚕業の危機を救った。さらに家畜や人間の化膿性疾患などの伝染病の研究を行い、殺菌法や無菌法を確立。ワクチン接種によるニワトリコレラの
伝染病予防にも成功。人生最後にして最大の業績は、狂犬病予防のワクチンの成功である。

10月 アレッサンドロ・スカルラッティ Alessandro Scarlatti

1660~1725
イタリアの音楽家。パレルモに生まれる。少年時代ローマで学び、
イタリア各地の宮廷や聖堂の楽長を務めた。ローマで主に歌劇創作の分野で活躍。
ヴェネチア楽派の長所をさらに進歩させ、華麗で表現力豊かな歌劇を作曲。ナポリ楽派の
基礎をつくり、音楽史上に名をとどめた。作品には、歌劇約115曲(現存約60曲)と並んで、
600曲以上の室内カンタータが重要。その他、オラトリオ、ミサ、モテットなどの教会音楽やセレナータ、マドリガルなどの声楽曲、器楽曲では小管弦楽の交響曲、クラヴィチェンバロ曲などがある。
また、ナポリの歌劇運動の中で「ダ・カーポ・アリア」と呼ばれる独唱形式や
「イタリア風序曲」などの器楽曲形式を完成した。晩年はナポリに住んだ。

11月 カール・マルクス Karl Heinrich Marx

1818~1883
ドイツの経済学者、哲学者。プロイセンにユダヤ人弁護士の子として生まれる。
ボンの大学に入り、さらにベルリン大学で学んだが、専門の法律学よりも歴史や哲学を勉強した。
『ライン新聞』に寄稿を始め、編集長となって発行部数を増やすも、発禁処分にあう。
「トリール随一の美女」と呼ばれた名家出身のイェニーと結婚する。
ブリュッセルで『哲学の貧困』を書き、唯物史観を基礎にした経済学説の最初の一歩を踏み出した。
『聖家族』『共産党宣言』をエンゲルスと執筆する。フランスに続き、ドイツで革命が起こると、
ケルンに戻り『新ライン新聞』を発刊したが、これも発禁となる。無罪となったが、国外に追放され、
ロンドンに移るが、市民権を与えられなかった。1867年に『資本論』を刊行した。

12月 エドモンド・ハリー Edmund Halley

1656~1742
イギリスの天文学者。ロンドン近くのハガーストンに生まれる。
オックスフォード大学を20歳で退学し、南天の恒星や水星の運行を観測するため、
セント・ヘレナ島に遠征。その結果を1679年『南天恒星目録』として発表し名声を確立した。
1682年には大彗星を観測し、その正体究明に打ち込んだ。
後にこの彗星が楕円軌道を持つことを証明、再出現を予言した「ハリー彗星」である。
また、ニュートンとは師弟の間柄以上の友好を深めた。彼の力学原理を発表するよう
強く勧め、『プリンキピア』の刊行に尽力した。1703年にオックスフォード大学の教授となる。
その後、王立グリニッジ天文台長となり、生涯天体の研究を行った。