世界の偉人筆跡カレンダー 2007年

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2007年 Calendar  





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1月 ナポレオン・ボナパルト Napoléon Bonaparte

1769~1821
フランスの初代皇帝。小貴族の次男として、コルシカ島で生まれる。
国王給費生となり、フランス本土に渡る。士官学校に学び、16才で砲兵少尉となった。
4年後、フランス革命が起こり、革命派の将校として活躍。
1795年パリで王党派の反乱を鎮める。翌年、貴族の未亡人ジョゼフィーヌと結婚。
イタリア遠征軍司令官に任命され、天才的な戦術でオーストリア軍を破る。
1799年11月、軍隊を動かして執政政府を作り第一執政となる。
行政、司法、教育制度を改革し、ナポレオン法典を制定。
1804年、世襲の初代皇帝に就いた。

2月 ラビンドラナート・タゴール Rabindranath Tagore

1861~1941
インドの詩人、思想家、教育者。西ベンガル州カルカッタ(現コルカタ)に生まれる。
父はインドの近代宗教運動に重要な役割を果たした宗教家。恵まれた環境の中、
インド古典を学び、イギリス留学などを通じて西欧ロマン派文学に親しんだ。
1901年父の宗教実践の地シャンティニケトンに寄宿学校を開設、
自然の中で全人教育と農民の精神的、経済的自立をめざす農村改革運動を進めた。
この点は日本の宮沢賢治と少しイメージが重なる。英訳詩集『ギーターンジャリ』が賞賛を博し、東洋で初めてノーベル文学賞を受賞した。ロマン・ロラン、アインシュタインらと交流、日本にも5度訪れた。詩集『黄金の舟』『渡る白鳥』、長編小説『ゴーラ』などが代表作である。

3月 ピエト・モンドリアン Piet Mondrian

1872~1944
オランダの抽象画家。3月7日、アーメルスフォールトに生まれる。
アムステルダムの美術学校に学ぶ。1909年から点描画法を試み、1911年の第1回近代芸術サークル展でブラックやピカソなどキュビズムの作品に触れ、衝撃を受け、1912年パリに移住。独自の抽象画様式を展開した。その後帰国し、1917年テオ・ファン・ドゥースブルフらと共に、グループ「デ・ステイル」を結成。本格的に純粋抽象運動を開始した。
色彩及び幾何学的な形態を極限まで単純化した新造形主義絵画を確立する。
また、第二次世界大戦の危機を感じて1938年ロンドンへ移住、1940年にニューヨークへ渡る。ジャズなど、都会の新鮮な音楽を浴び、豊かな色彩と小さな格子で構成された独特の絵画を生み出した。

4月 小野道風 Tofu Ono no

894~966
平安中期の書家。道風は“みちかぜ”とも読む。小野葛絃の子。
醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇の3天皇に仕えた。藤原佐理、藤原行成と共に
「三蹟」のひとりといわれる。官職は余り高くなく、正四位下内蔵頭として終わったが、
和洋書道の創始者としての業績は極めて大きい。紫宸殿の賢聖障子や大嘗会の屏風にも
筆を揮い、宮廷の重要な仕事をしている。またその書は唐に贈られ、
国の誉れとされるほどであった。『今昔物語集』には村上天皇に重んぜられた
その活躍ぶりが語られ、鎌倉時代に入ると引法大師と称される人気ぶり。
浄瑠璃『小野道風青柳硯』にも登場し、江戸時代以降広く知られることとなる。

5月 エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー Ernst Ludwig Kirchner

1880~1938
ドイツ表現派の画家。5月6日アシャッフェンブルクに生まれる。
大学で建築を学び、さらにミュンヘンの美術大学、実験芸術学校などで絵画を学んだ。
印象派的画風から出発したが、ムンクやゴッホ、アフリカ彫刻に影響を受ける。
1905年ドレスデンで仲間と「ブリュケ」(橋)を結成し、ドレスデンを国際都市に
しようと意気込み、アトリエを構えて生活と制作を共にした。1914年から画面における
建築的構成に関心を強め、1920年代には象形文字を導入、抽象的傾向を見せ始めた。
よく知られた街頭風景画によって、ドイツを代表する、表現主義の偉大な画家である。
その影響は今日に至る。

6月 アンネ・フランク Anne Frank

1929~1945
『アンネの日記』の著者。6月12日、ユダヤ系ドイツ人実業家オットーの次女として
フランクフルトに生まれる。1933年ナチス・ドイツのユダヤ人への迫害を逃れて
一家は人種差別の少ないオランダのアムステルダムに移った。
しかし、オランダもドイツ軍に占領されたため、1942年7月隠れ家に移り住む。
13才の誕生日に両親から贈られた日記帳を「キティー」と名付け、友だちに語るように
『子熊ブラリーの冒険』など自らの創作話や生活などをユーモアを交え、書きつづった。
ナチス・ドイツは後に不利になる本を片っ端から燃やしたが、この日記は見落とされた。
戦争の悲惨さ、人類の平和を訴える貴重な一冊となった。

7月 竹久夢二 Yumeji Takehisa

1884~1934
岡山県邑久郡に生まれる。本名茂次郎。上京し、早稲田実業学校に入学。
在学中から独学で絵画を習得し、新聞や雑誌にコマ絵を投稿した。
それらが認められ、22才で画家としての道を歩み始める。1907年絵はがき屋の岸たまき(他万喜)と結婚。たまきをモデルに夢を見るような、大正ロマンを象徴する夢二式美人画が生まれた。
同年、読売新聞社に入社。時事スケッチを掲載する。1909年『夢二画集 春の巻』を刊行したのをきっかけに次々と詩画集を出版し、大衆の心を捉えた。1914年日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、夢二意匠による小物類が販売され、東京名所の一つと称された。恋多く、漂泊の人生を生きた画家は、文才にも優れ、詩や動揺、デザインの分野でも才能を発揮。有名な『宵待草』は夢二の詩である。

8月 滝廉太郎 Rentaro Taki

1879~1903
明治の作曲家。8月24日東京市芝区に生まれる。父の転勤に伴い、
富山、大分などに移る。高等師範付属音楽学校(現東京芸術大学)に学ぶ。
卒業後も同研究科に進み、学生と講師を兼ねて後輩の指導にあたった。
ピアノ演奏に優れ、クラリネット奏法を心得、テノールの美声にも恵まれていた。
1900年、組歌『四季』を発表。文部省からピアノと作曲の才能を認められ、
ドイツ留学を命ぜられる。1901年、渡独。ライプツィヒ音楽院留学中、胸を患い帰国した。
「春のうらら…」で知られる第一曲『花』を含む『四季』を筆頭に
『箱根八里』『荒城の月』などが特に知られ、今も広く親しまれている。

9月 フローレンス・ナイチンゲール Florence Nightingale

1820~1910
イギリスの看護師、病院の改革者。
イングランドの地主の子としてフィレンツェで生まれ、フローレンスと名付けられた。
両親に反対されるが、看護法と病院の管理法を勉強し、訓練を受けて、
後、ロンドンの貴婦人病院の看護師長となった。1854年38人の看護師を伴い、
トルコの野戦病院に行き、クリミア戦争で負傷した人々を看護する。1856年ビクトリア女王に謁見。
1860年、多くの寄付金を基金として聖トマス病院に「ナイチンゲール看護学校」を開設した。
赤十字の設立の起因となったことや看護の仕事を名誉あるものにするなど、
病院事業にはかりしれない功績を残した。1883年、赤十字勲章を授与される。

10月 フェデリコ・ガルシア・ロルカ Federico García Lorca

1898~1936
スペインの詩人、劇作家。農場主の長男としてグラナダに生まれる。
幼少からアンダルシアの民謡や昔話を聞いて育ち、音楽と人形芝居に興味を示した。
叔母のイサベルにギターを、アントニオ・セグーラにピアノと作曲を習う。
マドリードに出て芸術家の卵たちの巣「学生の家」に住む。
ここで画家サルバドール・ダリと親交を結ぶ。
1921年『詩の本』を出版し、詩人としての地位を確立。1927年、戯曲『マリアナ・ピネーダ』を完成。
バルセローナで初演、成功する。1931年学生劇団「バラーカ」を結成、各地で古典劇の普及に努めた。
『血の婚礼』『イエルマ』『ベルナルダ・アルバの家』の三大悲劇は特筆すべきで、一読の価値がある。

11月 ポール・シニャック Paul Signac

1863~1935
フランスの画家。11月11日パリに生まれる。
初期はモネなど印象派の洗礼を受けるが、独力で自己の様式を確立した。
1884年アンデパンダン展の設立に参加し、無二の親友となるスーラと出会う。
スーラに刺激され、「色彩の分割」という技法を用い、セーヌの岸辺やブルターニュ、
地中海岸の風景を描いた。1896年頃技法をさらに発展させ、モザイクを
連想させるようなタッチに変化していく。油彩では熟考し抑制をきかせているが、水彩では本来の繊細さと奔放さを存分に発揮した。ゴッホは「シニャックは激しい性格と聞いていたが、実際会ってみると穏やかでバランスのとれた人間という印象だ」と手紙に書いている。

12月 クリストファー・コロンブス Christopher Cloumbus

1451~1506
イタリアの航海者、「新大陸」の発見者。毛織物商人を父に、ジェノバに生まれる。
貿易業に身を置き、航海術を磨いた。独学で勉強し、地球は丸いことを確信。
西回りでインドへ行く航路の探検をポルトガル王に売り込むも断られ、スペイン王室に働きかけた。
イサベル女王から援助を約束され、1492年8月3日、念願の航海に出た。
10月12日にコロンブスがサン・サルバドル島と命名したバハマ諸島の一島に着く。
この辺りをインドと信じ、金や珍しい土産を手に翌年帰国すると、熱狂的に迎えられた。
貴族だけに許される「ドン」の称号が与えられる。神の使命を受けていると信じ、
以後署名を象形文字めいたもので記すようになった。